3話

  青年は痺れを切らしました。妻の為に掛かりつけの医者を呼びました。ベッドの隣に丸椅子。その上に腰掛け、気難しげに眉を曲げ、神妙な面持ちで青年は言いました。 「君の為に、医者を呼んだよ」 「えっ・・・」娘は当惑します。彼女は昔から医者が嫌いなのです。黒のハット帽、鳥の嘴を髣髴させる顔全体を覆う奇怪なマスク、地を這い滑る上下繋ぎの衣装。あの奇異な様相は、底気味悪く、まるで死神か何かのように見えてしまうのです。娘に拒否権は、ありませんでした。程なくして、青年に招かれた医者が彼女の元を尋ねてきました。娘は、横になったまま、医者の指示に従います。拳を丸呑み出来る程の大口を開いたり、脈を取られたりしました。診察は、思ったほど苦でもなく、思いのほか早く終わりました。そして、青年と娘は、固唾を呑み医者の診断を心待ちにします。しかし、医者は呑気なものでした。二人の様子等、気づいていないように、至って緩慢な動作で、診察に使った道具を、革製の鞄の中に片付けます。そして、ようやく片づけを終えた所で、嘴の先を青年と横になる娘の方ヘ向けました。 「心配はありません。おめでたですよ」 医者は無味乾燥と言った様子の、さも興味無げな口調で、あっさりとこう言ったのです。医者の態度と相反する形で、青年と娘の二人の間には、筆舌しがたい嫌な静寂が流れたのです。貴族にしては珍しい程、高潔な青年の性分が仇となってしまったのです。というのも、青年は、婚儀を終えるまでは、と娘を一度も抱いた事がなかったのです。それなのに、妻となる女が妊娠した等と言う事実が受け入れられず、言葉を失いました。それは、娘とて、同じでした。今まで、不貞を働いた事はありません。また、この青年以外に、体を許そう等という考え自体、抱いた事はありません。 「何かの間違いではありませんか?」横たえていた上体を、ぐっ、ともたげて、娘は言いました。  しかし、医者は「いや」と首を横に振り、はっきり、強く言い切ります。 「熱も平熱、脈も血圧も変わりない。初めての事で戸惑っておいでなのでしょうが、何も心配する事はない。症状を見る限り、どう見てもつわりだ。」娘も青年も愕然としました。ただ黙って聞いています。聞いていますが、関心を寄せている感じでは、ありません。左耳を通った言葉がそのまま右耳から抜けるような、そんな風な様子でした。「では、失礼」そう言って、医者は鞄を持って、潔いくらい淡白に退場しました。この部屋には、気まずく、実に手に負えない空気だけが暗く淀んでいました。二人とも喋る事を忘れてしまったように、一言も発しません。 「どういう事かしら?」娘は、務めて真面目な顔で言いました。 「それは、俺が言いたいよ。君が男を知っていたなんて。まんまと、してやられた気分だ」  青年は打ちひしがれたように、枯れかけた草花のように項垂れていました。少し引っ張れば首が取れてしまうのではないか、それくらい、心細い様子でした。そんな青年を見て、娘も必死に弁解します。 「私、あなた以外の男の人と寝た事なんてないわ」けれど、論より証拠。娘は、自分が妊娠していない事を証明する材料等、何一つ持っていません。青年は、気の毒なくらいに憔悴しきった顔をしていました。 「だったら、誰の子供だって言うんだ」青年の面持ち、口調、目つき、そこには、怒りの色はありません。ただ、真実を語ってほしいと、切に願っており、悲壮だけが伝わってきました。娘は決心しました。不貞は働いてはいないけれど、唯一つ。過去に心当たりがある事を。それは、彼女にとって、最も辛い出来事で口に出す事は愚か、思い出すのも汚らわしい記憶です。

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