戴冠、或いは暁を待つ | 二章:魔術師は語る
かなた

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 役所から戻って来たエクリールは、今日になっても宿舎から出て行かなかった。  彼の住むべき場所は本来この宿舎の個室であるから、間違いではないのだが、珍しくないと言えば嘘になる。なにせ僕がこの街へ身を寄せたときからこちら、彼の住まいはずっと役所の一室であったので。 「アマリエがいると、四六時中|蒸《ふか》しているわけにもいかないからね」  ふわふわと微笑《わら》う顔は、久方ぶりに白煙の紗幕を通さずに見るものだった。寝台の上で上体を起こしたトゥーリーズのあるじは、今日ははじめから煙管を手許に置いていない。  実のところ、エクリールはアマリエと顔を合わせるどころか、同じ建物にいることが少ないのだ。たとえ煙管を銜えていなくても、彼の身体は冬のはしりに似た例の匂いをまとっている。それはヒトにとって、けっして好ましいものではないからだ。  なにせこれを深く肺腑へ吸い込めば、生じるのは奇妙な幻覚である。底知れず、迷えばいずれ帰れなくなるばかりの、現実と紙一重の幻。アマリエは小さいから、戻れなくなるのも早いだろう。  エクリールはそれを危惧しているくせに、アマリエを雇うことをやめようとはしない。  僕は心底呆れた気分で吐息をこぼした。その理由は眼前に座った旧知に対してのものが半分、その他半分といったところ。理由となったもうひとりは、この部屋にはいない。  けれどもエクリールは、理由のすべてが自分にあると判じたようだった。 「明日にはあちらに帰るよ」  とひと言、彼は左の瞼を指で撫でる。その上にあるべき眼帯は、ない。  ましろに強い印象を残す眼帯の黒がなければ、エクリールの顔は奇妙に整っている。あるいは、人間らしさに乏しい。左右でわずかに色の違うまなこも、そういうものだとすぐに納得ができてしまう。  なにせ彼は、獣の姿を持たないことを除けば、どうしようもないほど獣の側に近しい。ハイロやケイのような獣は、惰性として左右差の少ない整った顔を作るが、エクリールの顔はそれに似ている。  その面貌《めんぼう》から目線を外して、僕は首を横に振った。  別に僕は、エクリールがここから帰らないことを責めたかったわけではないのだ。 「して、クロイツのほうはどうだい? おとなしくしている?」  問われて、これについては点頭《てんとう》する。  ひとの平均と比べればおとなしいとは到底思えないが、聞き及ぶところから推定される彼の素行と比べればおそらく、おとなしいと称してもよいはずだ。たぶん。  だから、この肯定は嘘ではない。  そうかと短く応じて、エクリールは息を吐いた。喘鳴《ぜんめい》めいた音が喉から漏れる。 「ここしばらくはどんな塩梅?」  重ねられた問いに、僕はまず唇の端を持ち上げることで応対した。  この場にクロイツはいない。彼はアマリエによって、談話室で釘付けにされている。  ――あの白衣の魔術師は、今夜は自身の雇い主に会いたくないと言った。そうしてわざわざアマリエを捕まえ、勉強を見なくてはならない理由を得た。つまりアマリエは実際のところ、彼の逃避に巻き込まれた形になる。  エクリールへは適当に言い繕っておけ、とも彼は言った。  彼の言う適当とは、都合の悪い部分は伝えるなの意である。つまり彼は僕に対して、エクリールをうまく誤魔化《だま》しておけと伝えたわけだ。  もっともクロイツは、僕が対応を間違えたところで、困ったりはしないだろう。彼がどのようなつもりで誤魔化しを求めたかは知らないが、少なくともその点において、僕は彼を信頼している。ゆえに僕はエクリールに対し、壁上と通関への訪問について素直に語った。  伏せたのは、連絡を取った相手の名前と僕らの目的だけ。  ついでに吹雪のさなかに起こったいくらかの事件を語って、エクリールの部屋を辞す。  そうして談話室へと戻ったところで、僕はクロイツに出くわすわけだ。 「大将は元気そうだったか?」  不安に曇ることとは縁遠い黒い瞳が、僕を見た。 「僕らの基準では微妙なところだね」  冗談めかして首をすくめる。  クロイツといっしょに談話室にいたアマリエが、ひとつふたつ瞬いた。それに笑って返してから、僕はクロイツのほうに顔を向ける。  書き物をする指先は、大理石の彫像にも似た滑らかさ。およそ血が通っているようには見えないくせに、するすると動いて文字を綴って行く。 「明日はこいつをやっておくように。まだ乾いてないから気をつけろよ」  ひっつめ髪を解いた頭で、アマリエは神妙にうなずいた。  捧げるような手付きで紙面を持ち、思い出したように僕に頭を下げる。 「それではルカさま、おやすみなさい」 「おやすみ、アマリエ。よい夢を」  談話室に残ったひとの姿は、少ない。去って行くアマリエを見送って、クロイツは彼らの姿を一瞥した。そのまま腕を組む所作を見るに、クロイツ自身はしばらくこの場に残るつもりだろう。付き合うつもりで、僕も向かいの席に腰を下ろす。 「アルトゥールには会えた?」  机を挟んだ反対側から、返答のかわりに油紙の包みが滑って来る。天板から落ちる前に受け止めたそれは、別れの寸前、クロイツに預けたときと寸分違《たが》わぬ感触をしていた。  要は、中には僕がハイロから預かって来た本がそのまま入っている。 「今日は壁の見回りかもしれんね、やつは」  起床の時間が決まっている朝はともかく、宿舎における昼食と夕食のルールはさほど厳格ではない。特に夜の見回りの人員などは、そもそも夕飯の席に就かないことも多かった。  アルトゥールを見たら荷物を渡してくれるよう頼んでおいたものの、もし彼が夕飯の席に就いていなければ、とんだ無駄な頼みごとだったことになる。が―― 「誰が壁の見回りを?」  頑ななばかりの声とともに、風を切る音がした。続けて重いもので頭を叩く鈍い音。  束ねて表紙を付けた書類の角で頭を叩く、という一連の暴力が終わってから、ようやく僕は小さな声を出す。静止はおろか、警告にもなり切らなかった声は、耳まで届けばなんとも間抜けな響きだった。 「私は書記官ですからそういう仕事は致しませんよ、大佐付きの魔術師殿」  書類の束を掴んだ左手の手首には、三連の灰木の腕輪。その先にある袖の布地は軍装と同じ花紺青《はなこんじよう》。視線を上げれば、眼《がん》窩《か》に嵌った片眼鏡が蝋燭の光を撥ねている。 「そうだったかね」  頭上に乗った書類を掴んで持ち上げ、クロイツはすんと鼻を鳴らした。 「何度申し上げれば覚えていただけるのか」 「覚える気がないから、何度言われても覚えない」  背後からクロイツを打擲《ちようちやく》したその男は、片眼鏡には似合わずまだ年若い。僕やクロイツとさして変わらない年だろう。 「……あなたがアルトゥール?」  問うと、片眼鏡の奥の目がこちらを向く。鋭利な目線にたじろいでしまったのは、正面からそれを見るのがはじめての経験であったからだ。 「いかにも。……ああ、睨むようで申し訳ありません。目があまりよろしくないもので」  慇懃な言葉と裏腹に、声色は冷え切っている。目線も鋭さを減じることはない。 「ルカ様ですね」  続く言葉には棘などではなく、針が孕まれているようだった。  僕がうなずいて見せると、彼は机を回ってこちらへやって来る。  しゃんと伸びた背筋は服と相俟って軍人のように見えた。しかしながら、線の細さがそれを台無しにしている。残るのは峻厳《しゆんげん》とも取れる不愛想さばかり。  このひとから本を借りられるアマリエのことを、僕は心底尊敬した。  机上にあった本を差し出すと、彼は黙したままそれを受け取る。指先が油紙の表面を撫ぜたとき、かすかに乾いた音がした。 「……どうやら使い走りにしてしまったようですね。どこの家の方かは存じませんが、失礼を致しました」 「いえ、お気になさらず」  クロイツは、叩かれたことについて噛みつくかと思いきや、意外なことに完全なだんまりを決め込んでいた。おかげでアルトゥールは邪魔立てされることなく包みの中を改め、すいと目線を下げる。それが目礼であることを悟るまでに、だいぶ長い時間を要した。 「まだ残られるのでしたら、暖炉の火を消さないようにしておいてください。それでは」  彼が身を翻した後に残ったのは、机の上に置かれた書類の束ばかり。クロイツは手を伸ばしてそれを取ると、さも嫌そうに顔をしかめた。  書記官が去った談話室に残るのは、僕とクロイツのふたりきり。暖炉からは薪の爆《は》ぜる音が聞こえて来るが、厨房で皿を洗う水音は聞こえない。食堂に至っては、すでに明かりも落ちている。 「……なんだか怖いひとだった」  意図せず口をついて出た言葉に、書類をめくっていたクロイツが目を上げた。 「おまえは本当に他人に興味がねぇんだな。あの片眼鏡野郎はいつもあんな感じだぞ」  僕はわずかに唇を噛む。彼の指摘はもっともだ。今さらアルトゥールを怖いひとだと認識する程度には、宿舎における僕のひと付き合いは乏しい。 「アルトゥールはな、書記官やってるのが心の底から嫌なんだよ」  クロイツはなかば放り投げるようにして、手にした書類を机へ戻す。 「あいつの家は由緒正しい魔術師の家系だからな」 「……それって、君が邪魔でエクリール付きになれないってこと?」 「いいや。あいつ自身が、家の中では落ちこぼれどころの話じゃないってだけ」  魔術師の家系において、落ちこぼれと言えば、意味するところはただひとつだ。  その例に則って考えるのであれば、アルトゥールは限りなく確実に、魔術を行使することができない――ゆえに彼は不満のある職場に追いやられたのだろう。となると、今僕の眼の前にいる魔術師のことも気に入らないに違いない。そう考えればあの態度にも納得が行く。 「あいつは目が駄目なんだよ、目が」  クロイツは親指と人差し指を使って、右目の瞼を押し上げた。黒く、けれども不思議と重さのない色のまなこは、紛うことなく僕を見る。その瞳に映る僕の姿が、僕が鏡中《きようちゆう》において見るものと等しいかどうかは、実のところまた別の話だ。  魔術師たちの目は、魔術に必要なものを見ることができると言う。  それは僕らが魔力と呼んだり、竜脈と呼んだり、あるいはまた別の、畏怖と尊敬と呆れを含んだ名で呼ばわる〈不可視〉なるもの。獣たちもまた同じものを見る聞くが、ただのヒトには縁が薄い。アルトゥールがかけていた片眼鏡は、ヒトの目では見えないものを無理矢理に視《み》るためのものだったのだろう。 「……なんだか同情するな。絶対本人には言わないけど」  僕は椅子の上に右足を引き上げて、膝に顎を乗せた。対して魔術師は、眼瞼《がんけん》を押し上げた指を離す。  彼はそのまま肘掛に頬杖をつき、面白くもなさそうに息を吐いた。 「で、改めて大将はどうよ」 「調子が良くないって。だから、あまり詳しくは聞かれなかった」  僕は嘘を赦《ゆる》されたヒトの身ではあるが、この言葉に嘘はない。クロイツは頬杖をついた手の指先を折り曲げ、ふうんと気のない返事をした。  続く沈黙は、薪の爆ぜる音によって破られる。目線だけでそちらを見やりながら、彼は紅を刷《は》いた色の唇を開いた。 「壁に登ったことは?」 「話した」 「通関に行ったことは?」 「いちおう。……というか、そのふたつでほぼ全部だろ」  まぁねと笑って、黒いまなこがこちらに向く。 「客人のことは聞けたか」 「聞こうと思ったんだけど、やめた」  本当は聞いてもよかったが、聞かなかったのは僕の我儘《わがまま》だ。誓ってエクリールに対する気遣いなどではない。僕は、それを彼に聞くことが怖かったのだ。  クロイツはうなずきながら、緩やかな動作で立ち上がった。火掻き棒を片手に掴んで、くるりとひとつ回してみせる。 「こっちも収穫なしだ。アマリエも聞いて回ってみたらしいんだけどな」  僕は膝上で首を捻って、それを見ていた。 「勇気があるな。聞いたのか」 「向こうから言ってきた」  薪を詰めるために暖炉の灰を掻き出す背中は、いつもと違ってずいぶん丸い。そこに疲れの色が透いて見えるようで、間接的にアマリエの怒りの具合を悟ることができた。  あの幼い侍女にとって、主人は会おうとしてもほとんど会うことのできない相手だ。一日のうちにひと言ふた言話せればいいほうであるために、彼女の主人に対する敬愛は、どこか信仰に近しいようにも見える。  そんな塩梅なので、姿の見えない客人に対する彼女の嫉妬は察するに難《かた》くない。  クロイツは大仰に嘆息してから、掻き出した灰を袋に移した。 「ま、通関では収穫があったし、それでよしとしよう」  僕はうそりと目を細める。 「それは僕も教えてもらえるのかな」 「あの雪の日以来、街に出入りした人間はいない、ということがわかった」  どうやらあのとき、彼はやはり帳簿の中身を見ていたようだ。出入りした人間がいないのだから、見るべき内容は少なかっただろう。ならばあの短い時間でも、十分に確度の高い情報を得ることができたに違いない。  灰の減った暖炉の中へ、かわりに薪が詰められていく。几帳面に大きさを測って詰められる薪は、無駄な隙間を生じない。一晩火を点し続けるための作業なのだが、ずいぶん儀式じみたやり方だと僕は思った。 「それじゃあ、客人はまだこの街に残っている可能性がある?」  外套のフードを被ったままの頭が、緩々と左右に揺れる。  予想のできていた答えではあったが、落胆しないわけではなかった。そうかと応じて膝に額を擦り付け、なんとか悲嘆の声を飲み込む。 「仮に残ってたとしても、来た記録もないんだぜ」 「――そういうことになるか」 「そう。で、そんなやつを捜せるとは思えないから、元々いないも同じだ」  クロイツは嘘をつかない。かといって先生や、僕が知るそのほかの魔術師のように、言葉をぼかして韜晦《とうかい》することもない。言えないことは言えないと明言する。  彼が見つけられないと言うものを、僕が捜せる道理はなかった。諦め切れると言えば嘘になるが、諦めなくてはいけないのだとは思う。けれど―― 「ここから先は、あくまで俺からの提案なんだが」  降る声は雪に似ている。一切の余韻を排し、静謐と分類し得るひそやかな声音。  それに釣られて顔を上げれば、いつの間にか少女じみた白《はく》面《めん》が僕を見下ろしている。 「おまえ、大将に怒られる覚悟はあるか」 「怒られるようなことをするつもりか」 「場合によっては。でも、これについては最初から禁止されてるわけでもねぇしな」  僕は膝上に頬を乗せた姿勢で、しばらく彼の姿を見上げていた。言葉が見つからないわけではないものの、それを口にすることがひどく億劫に思えた。 「俺は明日から〈|壁の外《トゥーラ》〉に行く。おまえは来てもいいし、来なくてもいいぞ」  本気か、などと問う気も起きない。なんとなくそう言われる予感があったもので、驚くこともしない。意外であったのは、行き先として挙げられたのが山向こうの古巣《アルシリア》ではなく、同じ平地に位置するトゥーラであったことだけだ。  胡乱に思って目を細めると、鼻を鳴らす音が返って来る。 「来ないなら、ハイロにうまいこと言って工房に泊めてもらえ」 「……それ、誤魔化すとかそういう範疇じゃないよな?」 「そういうのは主観だから、俺の中では誤魔化しだ。さらに付け加えると、この行為はおまえにとっても利益がある。よっておまえは俺を手伝う義務がある」  ――利害が一致するなら手伝ってやる。そう言って安請け合いをしたのは、僕だ。  しかし、それが嘘であったと跳ね除けることもまた容易《たやす》い。ただひと言で済むだろう。幸いにしてヒトには、その権利が認められているのだ。 「で、どうする」  だというのに、僕はそのひと言を口にはしなかった。たしかな甘さを秘めた声音に目を細め、僕は喉を上下させる。飲み込む唾はなく、骨を伝う音ばかりがひどく大きかった。

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