戴冠、或いは暁を待つ | 二章:魔術師は語る
かなた

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 小屋の前で待っていたクロイツは、雪を掻く彼らの姿を見るともなく眺めている。 「で、あれでなにかわかった?」  問うと、白い頭が上下に動く。フードから零れた黒い髪が布と擦れて、乾いた音がした。 「ここで言うと問題が山積みだから」  言うが早いか、長い外套の裾が揺れる。それを追う形で歩きながら、僕は改めて門前広場の景色に目を向けた。  雪掻きをするひとびとの中で、商人とそうでないひとを見分けるのは容易だ。商人たちは必ずと言っていいほど、服に飾り付きのポーチを下げている。あの飾りにはちょっとした仕掛けがあり、売上を記録できるのだとハイロに聞いたことがあった。  それから軍人たちは、揃いの青い軍装を着ているので、こちらも見分けは容易だ。残るてんでばらばらの格好をした連中が職人と見習いだよ――と教えてくれたのもハイロである。 「さすがに、まだほとんど屋台も出てねぇなぁ」  クロイツはそうぼやいて、両手の指を擦り合わせる。袖の内側から見えた手に巻かれていたはずの包帯は、ここ数日で取り払われていた。掠り傷のうちにも入らないという自称のとおりに、手指には傷跡ひとつ残っていない。  吹雪にすら至った大雪ののち、風はずいぶん弱くなったが、寒さはまだまだ緩む気配を見せない。僕はさしあたって革の手袋をつけて来たものの、これが防寒に役立っているかは微妙なところだ。 「で、どうするよ。もう帰るか?」 「君が帰りたいなら、僕はそれでも構わないけど……」  帰る時間に明確な決まりはないが、あまり早く帰るのも正直なところ気が引ける。いちおう僕は、クロイツの目付役であると同時に、市井《しせい》を見るという勉学――もとい仕事の最中であるからだ。その結果がラリューシャの工房籠りであったわけだけれど、それについては棚に上げておくことにする。 「できれば、もう少し夕方に帰ろうと思う」 「絶妙にやる気のねぇ解答をありがとう」  クロイツは大げさに肩を落とす。それに対して申し訳ない気分を抱いたところで、はたと彼は背を伸ばした。 「ハイロだ」  唐突な言葉に、思わずぽかんと口を開く。言葉がうまく出なかった。クロイツは僕の様子になど構うことなく、頭上で大きく手を振ってみせる。 「早いね。昼?」  返って来た声は、およそ違《たが》えることのない耳慣れたものだ。  シャベルを振るう手を休め、ヒトの姿の獣は柔和に笑っている。  その本性が獰猛な巨躯の獣であるなど、同族を見た後であっても信じがたい笑みだった。 「アテが外れたとこ。てかなに、おまえまさか倉庫掘ってんの」  クロイツの言葉にうなずいてから、ハイロは僕を見た。挨拶がわりに片手を挙げて見せてから、ふたたびシャベルを持ち上げる。 「砂鉄の通関待ちでね。様子を見に来たらこれだったから」  ハイロといっしょに雪を掘っているのは、青い上着の軍人たち。本来であれば警備のためにいる人材だが、今日ばかりは彼らも雪掻きの任から逃れられなかったらしい。  坂の上の詰所にいる彼らの同僚も、今ごろ雪降ろしの任務に追われているはずである。 「でも、あんたは手伝いだろう」  ひとりがハイロの肩を強く叩く。 「そろそろ俺たちだけでいけると思うんだよ、経験上」  要は帰れ、の意である。  ハイロはなにか言い募《つの》ろうとしたが、それより先に掴んだシャベルを奪われた。  ラリューシャの気難し屋度合いは、その腕前以上に街の中でも有名なのだ。彼の弟子を手伝いに使ったなどとあっては、後でどんなことが起きるか知れない――というのが軍人たちの本音だろう。  ハイロは軍人たちに頭を下げると、僕らのほうへ駆け寄って来る。 「ちょうどよかった。ルカに預かって欲しいものがあったんだ」  声は低いが、快活だ。僕は首肯を返してから、鍛冶屋通りのほうに目を向ける。  鍛冶屋通りは、炉の排熱によってそこだけ空気が温《ぬく》い。だから雪解けも早い。――いくらかの足跡の深さから察するに、一見白い雪の下は悲惨なことになっているだろう。 「……誘える道じゃなかったな、ごめん」  僕らの話を聞いていたらしいクロイツは、構いもせず、まっすぐに斜面を登り始める。  いっぽうのハイロは申し訳なさそうな顔をして、なにをするかと思えば、ズボンの裾を捲《まく》り上げた。それから靴紐を緩めて、ブーツを脱ぐ。  あらわになった皮膚の上には、彼の髪と同じ色をした獣の毛が生えていた。 「こっちのほうが滑りにくいんだよな、少しだけ」  まろやかな形をした足先には、鋭い爪の姿もある。雪下の石畳にそれを立てれば、たしかに滑落を防ぐにはちょうどよいかろう。  彼は悪戯めかして笑い、利き手を僕に向かって差し出してくれる。僕はほんの少し迷ってから、彼の手を掴んだ。大きく暖かな手だった。  そして僕らはゆっくりと坂道を登る。間違っても滑らないよう、一歩一歩を慎重に。 「遅い!」  坂の中腹にも至らないあたりで、足を止めたクロイツが吼える。転べば悲惨なことになるのがわかり切った服装のくせに、距離の稼ぎ方が尋常ではない。僕らがそれに追いつきかけると、冗談抜きで飛ぶような足取りで坂を登って行く。 「無茶を言うな、ルカは普通の人間だぞ」  また途中で足を止めた白い姿を見上げて、ハイロは唸るような声を出した。 「なら、おまえはもうちょっと早く来れるだろ」 「置いて行くわけにいかないだろうが」  石畳に爪を立てたハイロに手を引かれてなお、僕の足取りは軽くはならない。外套は濃色で汚れが目立たないけれど、そんな事実は救いにならなかった。  が、幸いにしてラリューシャの工房は斜面の中腹にある。正確にはもう少し上だが、クロイツが飽きるよりは早くに到着できた。ぞろぞろと工房に入って来た僕らに対し、ラリューシャはただでさえ厳《いかめ》しい顔に深い皺を刻むことで対応する。  思わず頭を下げても、返る言葉はない。 「あれは別にクロイツのせいで怒っているわけではない、はず……炉の神がどうこう言ってないし」  ささやくように言って、ハイロは眉尻を下げた。気にしなくて構わないとばかり、僕は慌てて頭《かぶり》を振る。  クロイツはなぜか、勝手に鍛冶場の中に入り込んでいた。僕にとっては、もはや呆れ果てた蛮勇《ばんゆう》である。  ――少し詳しい理由を話しておくと、僕がこの工房に来た理由は、アマリエの紹介あってのことだからだ。気難し屋であるラリューシャが滞在を許可してくれているのは、孫娘《アマリエ》の加護の賜《たま》物《もの》に過ぎない。おかげで僕はラリューシャに対し、なにをするにも多大な勇気を要する。だから僕には、クロイツの真似などできない。絶対に。  ハイロはクロイツの白い背中を一瞥してから、工房の奥へ僕を手招く。いつも僕が籠っている、ひとが住むための空間のほうへ。  現在ラリューシャの弟子はハイロひとりだが、先代のころなどはまだ弟子も多くいたらしい。それから、その家族もいたと聞く。  断熱性の高い二重壁の向こうに部屋数が多いのは、当時の名残りなのだとアマリエ曰く。  そのうち、今日《こんにち》に至るまで使われている部屋はふたつ限り――ハイロの居室と、僕が借りている部屋だけしかない。 「なんだかいつも便利に使ってしまって、悪い気もするな」  言いつつハイロは自身の部屋から、油紙に包んだ荷物を持って来る。手渡された重みは僕にとって覚えのあるものだ。 「それについては気にしないで」  抱えてみれば、荷物には油紙と違う硬さの芯があった。芯となったものの形状は平たい箱に似ているが、その一面がわずかな丸みを帯びている。本だ。丸背で、布張りの。  彼は常に、借りた本を丁寧に包んで返す。  その大切な荷物を預けてもらえること自体が、僕は少なからず嬉しかった。 「しかし今日の包み方はずいぶん厳重だな」  言うと、ハイロは手の甲で顔を擦った。 「読んでわからないことがあってね。手紙も書いたから、それを濡らしたくない」 「よかったら本の持ち主に直接届けようか」 「うん、そうしてもらえたら助かる」  お安い御用だと僕は微笑《わら》う。アマリエに尋ねれば、アルトゥールとやらはすぐに見つかるはずだ。よろしくと念押しを受けてから、僕らは鍛冶場のあるほうへと戻る。  クロイツは先立ってと同じく、鍛冶場に入り込む形で鍛冶仕事を見物していた。 「飽きないな、おまえは」  ハイロが肩をすくめて声をかけると、魔術師はこちらを振り返る。尖晶石《せんしようせき》を磨いて嵌《は》めたような黒い瞳には、わずかばかりの驚いたような色があった。  よほど集中してラリューシャの仕事を見ていたらしい。 「刃物を打つのを見るのが好きなんだ。ちなみにルカ、しばらくここにいる気はないか?」  今度は僕が肩をすくめる番だった。ちらりと窓の外へ目線を投げれば、雪上を跳ねる光は未だ目に刺さりそうな具合である。もちろん日はまだ高く、沈む気配はまるでない。 「いたいならそう言ってくれればいいのに」  なんにせよまだ帰るには早い時間だ。せめて、昼食を食べるくらいはしてから帰りたいところである。アマリエ以下、本日の昼食担当の手間を増やしたくはないもので。  ――そんな僕の意を悟ったように、ハイロはごろごろと喉を鳴らした。 「昼飯くらい食べて行けばいいよ」 「用意は今からか?」  ハイロがうなずくと、クロイツはまた炉のあるほうへ顔を向けた。  耳を澄ませば、彼の目線が向く先からは鎚とは違う音がする。部屋に籠っているときにはまず聞かない音だった。長く尾を引くその音は、強いてたとえるならば、枝を小刀で削るときの音に似ているように思う。かすかな鉄臭さも印象的だった。 「じゃ、できたら呼んでくれ」  被さる声音はいつものとおり、御伽噺を綴った文字の向こうから響くよう。言い返す気力が綺麗さっぱり失せてしまうものだから、この魔術師もつくづく得な生き物である。  僕とハイロは目線を交わし、ふたたび居住区のほうへと戻った。  ――ラリューシャ老の工房はどこもそうだが、厨房は特に整理が行き届いている。居住区のほかの部屋と比べると、踏み入るのに勇気が要る場所であった。  ちなみにこの工房における昼食は、親方と弟子が交互に用意をする規則になっている。今日はハイロの番であるから、ラリューシャはここへ来ない。  それだけが、今の僕にとっての救いだ。  もちろんそんな気分を抱いてみても、僕の手際が劇的によくなることはない。けれどもハイロは僕を信用して、鍋のひとつくらいは任せてくれる。あとは無発酵パンの見張りも。 「なんだか本当に便利に使ってしまって、悪いな」 「そのあたりは気にしないで」  幼児でもできるような仕事であっても、できることがある事実が嬉しいと僕は思う。  だと言うのに、横目でうかがい見たハイロの顔には、どこか済まなそうな表情が滲んでいる。彼はこうして僕に気安く接してくれているが、それはやはり気を遣ってのことなのだ。  ハイロと僕を引き合わせてくれたアマリエは、早々に僕の正体を話してしまった。だから彼にとっての僕は、お忍びの貴族の放蕩《ほうとう》息子かなにかに見えているのだろう。  そしてエクリールのことがあるから、一事が万事、強くはやめろと言えない。それでも僕に怪我をさせてはいけないし、本当は様々な手伝いをさせるのもよくないと考えている。その結果がこれ。  僕はその関係を瓦解させたくないから、それを糾《ただ》さずに今日まで来てしまった。糾したところで誰ひとり得をしないと、自分に言い聞かせながら。  ――パンの焼き上がりを告げると、ハイロはミトンをはめた手でオーブンを開いた。広がる匂いに酵母の酸っぱさはなく、焼き菓子に似た香ばしさがある。  丸く焼き上がったパンを切り分け、汁物を取り分ければ、昼食の準備はおしまいだ。  僕らは手分けして配膳の用意をする。と言っても、この工房に住人が揃って飯を食べられるような食堂はない。だから各々に配りに行くというのがその実態だ。  食事を持って鍛冶場へ続く廊下へ出ると、同じく廊下まで出て来たクロイツの姿がある。  彼はさも不思議そうに首をかしげて、僕らの姿を交互に見た。 「なんだよ、ふたりで先に食って来てもよかったんだぞ」 「どういう理論だ、それは」  僕はわかりやすく大袈裟に溜息を吐く。そこに込めた皮肉に、彼が気づいたかどうか。ましろの面からうかがい知れるものは、あまりに少ない。  ハイロは無視を決め込んで鍛冶場へ入り、食事をひと揃い減らしてから戻って来た。 「おまえはどうする、ここで食べるのか?」  尋ねられて、魔術師は肩をすくめた。 「俺はそこまで命知らずじゃないんでね」  言いつつ彼は僕のかたわらまでやって来ると、自分の分の食事を持ち去って行った。とはいえ彼が行ける先など、この工房においてひとつしか存在しない。その背を追って建物の奥へと進みながら、僕は深々と本物の溜息をついた。 「自由だなぁ」 「勝手なんだよ」  ハイロはおもむろに口角を下げる。 「前からああだった」  そういえば、クロイツとラリューシャは旧知なのだとエクリールが言っていた。両者の縁はアマリエやエクリール自身よりも長いのだ、とも。あの言葉が正しければ、きっと―― 「……つまり、君がここに来たころから?」  ハイロが、顔ごとこちらを見る。見下ろす眼差《まなざ》しはひどく驚いた様子に見えた。  そうだよという掠れた応《いら》えののち、彼は幾度か瞬《まばた》きをする。 「俺が見習いとして工房に入ったころは、クロイツもここで暮らしてたんだよ」 「適当なこと言ってんじゃねぇぞ、ハイロ。俺とおまえは、ほとんど入れ違いだろうが」  迷いのない足取りで前を進んでいたクロイツが、振り返り様に口を開いた。その口から漏れ出た言葉は、けっして否定のものではない。むしろ肯定に近しいものだと僕は思った。 「それってどれくらい前の話?」 「一年くらい前かな。俺が来て少ししてから、クロイツはエクリール卿に雇われたんだ」  一年、という言葉を胸の裡《うち》でつぶやいてみる。  ちょうどそのころの僕は、まだ王宮で暮らしていた。容態が芳《かんば》しくないという父の枕辺を訪《おとな》い、届いているかもわからない話をしていた時分であったと思う。 「――雇われるような理由があった、ということ?」 「事故だよ、事故。不幸な事故」  返答は、廊下の向こうから。僕らが普段使わない部屋の扉を開けて、答えた当人はその中に足を踏み入れる。ハイロがそれに続き、拒否する理由を持たない僕も彼らに倣《なら》った。  床に座れば、夜天色の瞳をいくぶん近くで見ることができる。  先刻と同じように横目で見やったその瞳は、まっすぐにクロイツのほうを見ていた。 「おまえはまたそういうことを言う」 「俺じゃねぇよ。大将本人が言ってんだ」  クロイツはすんと鼻を鳴らし、胡座《あぐら》の膝に頬杖をつく。 「俺はちゃんと領主殺しを敢行したんだってルカに教えたぞ」  にわかに、ハイロの喉から呻きに似た声が漏れた。うっかり苦いものを噛み潰しでもしたような、聞いたことのない声だった。 「実態がそうでも、俺はあれをとても貴《たつと》いことだったと思っているよ。だから、もっときちんとした言い方で表現するべきだと思う」  続けた声色の低いこと。クロイツはふぅんと気のない返事をし、両の指を組んだ。  詩を――魔術を唱えるのと同じ声で食前の祈りを唱え、木彫りの器に注がれたスープを啜る。僕とハイロも彼に続いた。そうしてパンも汁物も消えつつあったときのこと、珍しくラリューシャが大声でハイロを呼んだ。  驚く僕に手刀《てがたな》を切って見せ、ハイロは立ち上がる。巨体にそぐわぬ小走りで駆けて行く姿を見送り、僕はそれまで閉ざしていた口を開いた。 「貴いことって言ってたね」 「大体の人間がそう思うから、この街の領主は行方不明なんだよ」  木彫りの器の底に溜まった野菜屑を掻き集めながら、クロイツは言う。 「あの野郎は〈銀の壁〉を降りて早々に、一席打《ぶ》ってるからな」 「一席っていうと……」 「演説」  集まった野菜を口に掻き込む時間は長くはない。だからこそその分だけの沈黙を、僕は急かすことなく待つことができた。  昼食をすっかり片付けたクロイツは口許をひと舐めし、ひとつ大きく息を吸う。 「――僕は君たちから領主を奪ったが、」  続けて唇からこぼれた声音は凛として、耳から飛び込むと同時にひとの背筋をしゃんと伸ばす――およそ信じ難いことではあったが、真面目なときのエクリールの声そのものだ。 「かわりにいずれは、正しき王政を約束する」  低くもなければ高くもない。威厳に満ちているわけでもなく、過度な毅《つよ》さも持たない。されども聞く者を従わせるに足る、芯の通った語り口。  僕は汁物の残った器を置いたまま、膝上に手を乗せてそれを聞いていた。  いっぽうのクロイツは僕の態度を一瞥すると、悪戯が発覚した幼子のように舌を出す。 「そういうふうに言ったんだよな」  言葉はすでに常の調子を取り戻していた。エクリールの、音もなく燃える埋火《うずみび》のような声音ではない。 「そうか」  僕は改めて匙を手に取り、先の彼と同じように器の底の野菜屑を集めることにする。 「そんな話をしたんだね」 「いかにもしてそうな顔してるだろ」 「……顔についての評価として合ってるかどうか、僕にはちょっとわからない」  思い出そうとした既知の顔は、かわりに眼帯の色ばかりが浮かんでくる。あるいはその向こうにあるはずの、一切の視力を持たない白藍《しらあい》が。  同時に普段のおだやかなばかりの掠れ声も、自分でも奇妙なほどによく思い出せる。彼自身が操る火が虚空を灼《や》くように、それが冷ややかな熱を帯びて行く様まで、まざまざと。  それに惹かれて余計なことを言わずに済んだのは、目前の魔術師が子どものように唇を尖らせるなどしているせいだ。  彼はどうも自分の容姿に無頓着過ぎるきらいがある。 「ま、無理に同意してくれとは言わんよ、俺はね。そのあたりは個人の感想なので」  魔術師は膝立ちになり、そのままの姿勢で部屋に置かれた寝台のほうに進んで行った。なにをするかと身構えていると、馴れた様子でその下に手を差し込む。  一年、という言葉が今度は脳裏に響いた。  僕の眼前にいる魔術師は、一年前までここで暮らしていたのだとハイロは言った。それを踏まえて考えれば、彼のこういう動きには納得が行く。この男は未だ、この工房で暮らしていたときの記憶を抱えて生きているのだ。  ――そんなふうに思いはしたが、まさかベッドの下から荷物を出して来るなどとは思わなかった。と言うより、駒遊びの駒と遊技盤を出して来ると思わなかった。完全な予想外だ。 「夕方まで時間つぶしてから帰ろうぜ。ルールわかるか?」 「わからなくはない、けど……」  動くという事実さえ信じられない白い指が、特徴のある駒を摘んでいる。  騎兵を象《かたど》ったその姿には、僕も覚えがあった。格子状の盤面で駒を進め、戦の真似事をする遊戯に使うもの。  貴族の子息なら勉学の一環で習うものだが、駒はそれぞれがだいぶ複雑な動きをする。おかげで実際に遊ぶとなると、けっこう頭を使う羽目になったはず。 「君はわかるのか」 「ラリューシャのおやっさんが、近所の爺さんと打ってるのは見た。後は大将とかな」  言って、クロイツは駒の入った箱を引っ繰り返す。音を立てて零れた駒を盤面へ並べる動きは、お世辞にも手慣れたものには見えなかった。  なかばまで陣が敷かれるのを見届けてから、僕も同じようにひと揃いの駒を自分の側に並べてみる。配置に迷うような駒がなかったのは、きょうだいが根気良くこの遊びを僕に仕込んでくれた結果だ。 「エクリールあたりと比べたら、僕なんて相当下手だよ」  おかげで駒を間違えずに進めることもできるが、片手間で打てるほどの腕はない。この遊びがうまかったのは、あくまで僕のきょうだいだけだった。そしてエクリールは軍人の家系の生まれとあって、きょうだいよりも数段強い。  理解の及ばない魔法じみた奇《き》手《て》を見せられたことも、一度や二度の話ではなかった。 「別にその辺と打つことは想定してないから」  では誰を想定しているのか――という問いはぐっと飲み込む。  ただ無為に時間を潰していたら、ぽろりと言わなくてもよい言葉が漏れそうだと思っていたのだ。クロイツのほうが暇つぶしの手段を提示してくれると言うのなら、それはそれでありがたいと思うしかない。  ――勝敗については、特に語ることはしないでおくことにしよう。

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