戴冠、或いは暁を待つ | 二章:魔術師は語る
かなた

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 息を切らせて登りつめた先には、クロイツ以外の人影が幾らか。軍服に特有の染料で染められた花紺《はなこん》の色は、晴れの日の空にも鮮やかだった。  彼らは僕の姿を認めると、揃いも揃って瞠目《どうもく》してみせる。 「無茶をさせたなぁ」  白茶の髪の男がそう言って魔術師を見た。当の魔術師はなに食わぬ顔で僕を手招く。  壁の上はちょっとした路地よりよほど広くて、歩いて行くもはさほど苦ではなかった。南からの風も弱くはないが、ひとが煽られるほどの強さではない。 「ここではまだお忍び――ということにしたほうがよろしいのかな、魔術師殿」 「俺に聞くな。ま、アマリエはいねぇし好きにすればいいだろ」  クロイツの返答は素気ない。軍人たちは一様に笑いながら、僕のベルトに紐を結んだ。壁の上では、こうして命綱として紐を結っておくのが通例なのだという。結わえたときはしなやかだった紐は、力一杯引いても切れる気配を見せなかった。 「では、気をつけて」  軍人たちは敬礼で僕らを見送ってくれる。すでに東へ進路を取ったクロイツを追い、僕もまた同じ方角へ足を進めた。  歩き出した壁の上は、地上と同じく緩やかな坂になっている。  その何箇所かに軍人が立っていて、彼らは行き会うたびに僕の紐を変えてくれた。 「だらだら長いと落ちたときに死ぬだけだからな。感謝しとけよ」  僕は自分でも思ってみないうちに、不思議そうな顔をしていたらしい。けれども冷静に考えてみれば、先程から視界の端を掠める景色は、首筋に当たる鋼の感触よりも、よほど現実味のある死そのものだった。  ゆえに僕は最低限の動きでうなずく。眼下の景色はできるだけ目に入らないようにした。 「よし、ついた」  僕が五度目に紐を取り替えてもらったとき、クロイツはそう言って壁の外を示した。  正確に言えば、彼が示したのは壁の下からも見える東の山々だ。 「まさかとは思うけど、あれで占うなんて言わないよな」  普段であるなら占うでも一向に構わなかったが、なにせ今日は壁を登った後である。おそらく一発くらいなら、あの横面を張っても許されるだろう。 「そいつのやり方はもう少し現実的だよ。おれも見たことがある」  紐を結っていた壮年の軍人が苦笑してみせた。 「弁護をありがとう。品《しな》でも作ってやろうか」 「中身が男だってわかってんじゃ、ありがたみがねぇよ。出直せ」 「おまえの記憶を綺麗さっぱり消す方法が見つかったらな」  クロイツは鼻で笑うと、壁上に置かれている荷物入れの箱へ歩み寄った。ラリューシャの工房で見せたのと同じ類の慣れた手つきで、巾着と折り畳みの椅子を引っ張り出す。  そのまま振り返りもせず東へ向かう足取りには、こちらを待とうという気配がなかった。  紐を変えてくれた軍人に頭を下げて、僕はできる限りの早足で彼との距離を詰める。 「落ちたらどうすんだよ、走んな」  クロイツは眉をひそめた。でも、などと僕が言い募るより先に足を止め、折り畳みの椅子を開く。 「座んな」  促されるまま腰を下ろした椅子は、意外と座り心地が悪くなかった。座面の布地は撫でると少しざらついている。 「あと、これ」  クロイツ自身は壁の上に座り込み、こちらへ巾着を投げてよこした。  半分開いた口からは、真鍮製の単眼鏡がはみ出している。 「おまえ、そこまで目がいいわけでもないだろ。使えよ」  言われるままに単眼鏡を取り出せば、巾着袋は空になった。入っていたはずの荷物はどれもクロイツの膝の上にある。燧石《ひうちいし》と、硝子製のオイルランプだ。  彼は慣れた様子でそれらを点検してから、不意に顔を上げて南のほうを見る。 「火ィ点けるには風が強いな」  それならばと僕は腰を浮かせる。風防がわりに僕が立てば、オイルランプに火を点けるぐらいは造作もないだろう。が、クロイツはすぐさま僕を手で制する。  応じてこちらが座り直すのを見届けてから、彼は道具のすべてを壁の上へ下ろした。 「――〝月のしずく、星のさざめき、みなもに輪を落とし〟 」  放たれた声はひそやかに、しかしながらたしかに鼓膜を震わせる。あえてたとえるならば雪面に落ちる六花《りつか》によく似た、ひどく奇妙な響きだった。 「 〝貝のみやこの銀の枝、かれぬ花咲く〟 」  否。歌だ。寄せては返すを繰り返す、湖面の波によく似た調子の。旋律の上を滑る言葉は不安定にうつろい、されども崩れて体《てい》を失わないだけのまとまりがある。それに僕は、この歌自体に覚えがあった。節回しこそ微妙に違うが、北方に伝わる子守唄に相違ないはず。  その一角で生まれた父の獣が、ぽつりぽつりと口ずさんでいたのを覚えている。 「 〝宵わたる風、花びらをさらいゆく前に、この子の枕辺へひとひら落としておくれ〟 」  それが魔術の一端であることを示すように、クロイツは袖に隠れた右手を払った。にわかに風が啼《な》く。強く、あるいは親しげに。僕の髪まで遊ばせながら、朔風《さくふう》が南風《はえ》と渦を巻く。 「 〝弥終《いやさき》の果て帰りつく箱庭の中で、ふたたび祥《さいわ》いの夢を見るように〟 」  そうしてもの唄う鈴の声が絶えたあと、残ったのは凪の気配ばかりだった。  僕は妖精に化かされた気分で、幾度かまなこを瞬《しばたた》かせる。クロイツは燧石を打ってオイルランプに火を点し、南風が戻るころにはすっかりそれを安定させていた。 「君、本当にちゃんと本格的な魔術が使えるんだな……」  今し方クロイツがやって見せたのは、音の高低と韻律《いんりつ》で言葉をつなぎ、ただの一節に複雑な意味を持たせて詠唱を短縮する、魔術の技法だ。都度正確に同じ歌を再現すること自体が困難とあって、すでに廃れかけた技法でもある。 「まぁね」  クロイツはそう返して、オイルランプの火をぎりぎりまで絞った。ついで目の上に手で庇《ひさし》を作り、遠い山々を眺め見る。僕も単眼鏡越しに同じほうを見た。  ――硝子のレンズの向こうには、程なくして揺らめく火の明かりが映る。  一定の感覚で瞬《またた》くそれは、どう考えても山火事などではなく、人為的な燈火《ともしび》だ。 「うん、イラテア商会の連中ですねぇ」  僕が疑問を口にするより先に、クロイツが言う。 「イラテア……南のほうの商会だよね。たしか、武器の」 「そういう建前になってたなぁ。でもそれ以外も大体手ェつけてるし、金の匂いがあればどこでも出張って来るよ、あいつら」  単眼鏡から目を離すと、彼はオイルランプの螺子《ねじ》をいじっているところだった。空気量を調節し、山間のものと同じ光の明滅を返す。 「そんなものがどうして」 「今言っただろ。金の匂いに釣られて来るんだよ」  みたび同じ明滅を繰り返したのちに、クロイツはもう少し複雑な信号を返した。慌てて単眼鏡を覗き込めば、向こうはまた別の調子で火を動かしている。 「どこかから金を受け取った馬鹿どもがいたって件は、前にあいつらから聞いたんだぞ」  火の明滅はつまるところ、両者の間で通じる符号なのだろう。 「金の出処を調べろって言ったんだがなぁ。調べがつかなかったって、舐めてんのか、と」  どうも口汚い罵倒まであるらしい。  となると、これは長い歴史を持つ符牒《ふちよう》に違いないだろう。クロイツと商会の人間がやり取りするだけのものであれば、こんな文句に相当するものをあえて作ってはいないはず。 「ほかも駄目なら金なんて払わねぇぞ、この役立たずどもが……と」  痛《つう》罵《ば》から始まり、クロイツはいちいちお互いが語る言葉を訳してくれる。その大半が難民たちの動きであったり、各領地で新たに発令された条例のことであったりした。  クロイツはいちいち情報を取捨選択し、聞きたいものにだけ数字を示す明滅を返す。その数が多ければ多いほど、情報は丁寧かつ緻密だった。それを踏まえて考えるに、数字は情報に対する値段の提示らしい。僕が指折り数えるその数字がけっこうな額になったころ、 「王都のほうはどうだ」  クロイツは短く問うた。返されるのは、無。  意味を取りあぐねて単眼鏡を外すと、魔術師は紅《こう》唇《しん》を尖らせて僕のほうを見た。 「王都はなにもなしだそうです」 「そう」  僕は努めて平《へい》素《そ》の声音で返す。  故郷《王都》はきっと、今ごろ王太子が王となる準備の真っ最中だ。なにもないと言うのなら、それはきっと順調に進んでいるということになる。  そう考えて安堵した心中を、クロイツには悟られたくなかった。  商会の使者と罵り合いを含む別れの挨拶、およびその同時翻訳を終えた彼は、幸いにしてオイルランプの火を落とすほうに集中していたけれど。 「君の情報源はこれだったわけだな」 「そ。内通だって言われると面倒だから、壁上警備の連中以外には秘密だけどね」  単眼鏡をしまった袋を返すと、同じ袋にオイルランプと燧石をしまう。立ち上がった彼に合わせて、僕も今度こそ椅子を立った。内通、という言葉は妙に耳にこびりつく。 「問題は――」 「俺の懐が痛む。とても」  言いつつ、魔術師は東へ向けて歩き始めた。それを追って向かった先に、最後に紐を変えてくれた年嵩の軍人の姿はない。  かわりにやって来たと思《おぼ》しき人員たちばかりが、右へ左へ忙しく走り回っている。  彼らの間で交わされる言葉はないものの、動きは統率を欠くことがない。ベルトに通した紐が一切絡まないのも、彼らがここの作業によく慣れている証左だ。  クロイツは紐を跨いで、荷物入れの箱へ巾着袋を放り込みに向かった。僕はといえば誰かの紐を踏んでしまいそうで恐ろしく、その背中を見送るだけだった。  ついで意味もなく首を巡らせ、西の空を見る。  世界に赤く紗《しや》をかけて行くはずの夕暮れは、今日は厚い雲の向こうにあった。  強い風が運ぶ雪の足音を聞いた気がしたころ、魔術師の痩《そう》躯《く》が駆け戻って来る。  ふたたび歩き出した城壁の上は、夜の帳も落ちようという刻限を迎えて、ひとの数をずいぶんと減らしていた。あちこちに篝火《かがりび》こそ焚かれているが、そんなものは気休めだ。  明るさを減じた高い壁の上は、歩くにしても不安が大きい。結果として並んだ石のわずかな凹凸すら恐ろしく、足取りは自然と摺り足気味になる。 「なぁ、クロイツ」  前を行く魔術師の足取りは、いつものとおり。軽快な歩みは高所で度胸試しをする子どもそのものだが、普通の子どもはこんなところで度胸試しをしない。  そもそも彼は、命綱さえ結んでもらっていないのだ。 「なにかね、ルカ君」  薄闇に鮮やかな白い影は、振り返ることなく呼びかけに応じた。 「イラテア商会って、いつもあそこに来るのか?」 「基本的にはね。おまえが今後やりとりするなら、符牒《ふちよう》はきちんと教えてやるよ」  東の空は夜の帳を引きつつある。  西へ向かって歩くのは、頭上に来る帳の下から逃げようとしているような気分だった。 「あれ、なんのために来るんだ? 呼んでるのか?」  問うと、前を行く影はゆるゆると首を横に振ったように見えた。外套の裾までかすかに揺れて、火の色に染まった刺繍の糸が光る。 「あいつらはそもそも、トゥーリーズのことを知りたいのさ。だから、俺が呼ばなくても勝手に来るんだよ」  その言葉を聞いた刹那、靴裏で泥《ぬか》濘《るみ》を踏んだ錯覚がした。そのまま深みへ足を取られる幻覚に恐れをなし、慌てて足を引っ込める。  イラテア商会は、この国に唯一の武器商だ。この国に戦らしい戦はもう何十年と起きていないが、彼らはそれでも商会の体を保ち続けている。クロイツは彼らを金の匂いに釣られるものだと称したが、本当はそんな可愛いものではないはず。  むしろ彼らを惹《ひ》きつけてやまないのは、鉄《てつ》錆《さび》の―― 「ま、要するに収穫なしで帰っても怒られないんだろ。俺、この領地のことをあいつらに教えたことねぇし」  僕はわずかに眉根を寄せた。僕が幻に足を取られているうちに、クロイツはもうだいぶ遠くへ行ってしまっている。  けれどもこちらが歩き出すのと同時、その姿がすいと振り返った。フードの下にある相《そう》貌《ぼう》は、篝火の明かりを受けてなお白い。  黒いばかりであった瞳に揺らぐ光だけが、外套と同じく金の縁を宿している。 「もうひとつ、聞いてもいいか」 「答えられることなら」  広い壁上には、ひとが寝泊まりするための天幕が組み立てられているのが見えた。  近づくのは夜ばかりではなく、雪もまた同じ。夜は東から、雪は西から。  クロイツが足を止めたのは、ちょうど両者の合間だった。  銀の名を冠《かん》する壁を渡る風はいくらか複雑味を増し、彼が纏う白色の外套の裾をそぞろに散らせる。その様はほんの少しだけ、かつて見た舞《まい》手《て》の衣と似ているように思われた。 「――不幸な事故だったって言ってたでしょう、前のひとのことは」  首肯が返って来る。 「どんな事故だったの」 「エクリールには聞かなかったのか」  壁上にふたり並んで見れば、篝火の色に濡れた瞳が、まっすぐ僕を見上げる形になった。 「聞かなかった」  答えると、魔術師は黒いはずのまなこを細めて微笑《わら》った。 「仕方ねぇやつだな」  呆れたような、あるいはひとを小馬鹿にしたような、見覚えのある笑みだった。 「あの後俺にお呼びがかからないところを見るに、大将もいよいよ諦めたんだろう」  なにを、と僕は問わない。なるべく彼自身を見下さないようにと注意を払いながら、夜色の目を見返す。そのうち不意に、たおやかな指が袖の裡《うち》から東の空を指し示した。 「トゥーリーズ領主の伯爵閣下は、首に縄がかかったまま、そこから飛び降りたんだ」  ひょいと、と彼は形容する。けれども象牙の指が示した先にあるものは、そんな気楽な擬《ぎ》容《よう》語《ご》で表現し得るものではないはずだ。登った壁の高さを思い、腰に結われた紐の長さを考えると、背筋の凍る気分がした。 「それは事故ではなくて、自殺だろう」 「少なくとも本人にその気は一切なかったと思うよ、俺はね」  クロイツは踵を返し、雪雲に向けて歩き出す。  僕もわずかな逡巡ののち、白ばかりになった背を追って歩き始めた。  そうして高らかに響く足音は、ひとりぶん。どうやらクロイツは猟兵たちと同じく、足音を立てずに歩くための手法を持っているようだった。 「自殺じゃないならやっぱり事故だ。エクリールが殺したわけじゃない」  近づけば、衣《きぬ》擦れの音ばかりが耳朶を打つ。 「いやはや残念ながら、領主の首に縄をかけてここまで連れて来たのは大将なんだよね。だから実際のところ、事故の原因が大将なのさ」  その向こうから流れて来る声は、奇異なほどに冷たく感じられた。  錯覚かなにかだろうか、とさえ思う。 「つれて来た?」  だから僕はその声色について反応を示すことはしない。かわりに投げかけた問いは、クロイツの耳にどのように届いたものだろう。  魔術師の足は壁を成す石を踏み切る。 「そうだよ、つれて来た」  とんと降りた先は遠く、篝火が落とす影の先。  思い返した手足は折れそうに細い。あれでは階段を登ることはおろか、ここに留まることさえ難しいのではないかと思う。  ましてや、ヒトを連れて登って来るなど―― 「おまえ、たしか王都のお貴族様ってことになってたよな」  唐突な問いに、僕はうなずいた。なっていた、というのはけっして語弊のある言い方ではない。実際のところ僕は王都の貴族ではなく、王都の王族なのだ。 「それなら、王の獣――当代は〈宵《よい》守《もり》の君《きみ》〉だったか。あれを知ってるだろ。式典なんかでもよく出て来るしな」  クロイツは爪先立つと、腕を上へ伸ばした。しっかりと伸びた指先が示すものをたしかめるべく顔を上げ、僕はようやくそれが意味するところを悟る。それはなにかを指し示しているのではなく、指差す先を見上げる行為自体に意味があるのだ。  ――その証拠に僕は、こうして見上げていた相手に覚えがあった。 「前王から北方辺領を賜った、ユードヴィール様だね」  それは竜の名代《みようだい》として、王の治世を見届ける獣だ。つまり、いずれは父の生き様を竜の夢へと転ずる執行者。あるいは、形而下の王が形而上の竜より賜る加護そのもの。王の獣だ。  ただの一撃で凶手《きようしゆ》を屠ったあの獣は、ハイロやケイとはまた別の白皙の獣でもあった。  が、体格という意味においては、三者はよく似ている。もっとも王の衛《え》士《じ》の筆頭とされたユードヴィールの体躯は、ハイロやケイよりひと回りは大きかったが。 「獣の身に非《あら》ずんば刃《は》向《む》かうに愚かと讃《たた》えられた、怪力無双の化け物でもある」  クロイツは手を降ろし、石の上で踵を揃えた。  影を踏み越えた僕がかたわらに並ぶと、また音もなく歩き出す。  ユードヴィールとクロイツは、色彩という意味ではよく似ていた。どちらも同じく、白の印象ばかりが強い。 「竜の子らっていうのは大半がそんなもんだ。しかも大将に至っちゃ、系譜を辿れば〈宵守の君〉の親戚に行き着く。そう考えたら不思議な話でもないだろ」 「そうなんだ」 「そうだよ」  ユードヴィールはその父も先代の王の獣だ。ゆえに父とは兄弟のように育ったとも言うから、僕らにとっては伯父《おじ》と呼んでも過言ではないだろう。その証拠にユードヴィールという獣は、僕がじゃれつけば必ず構ってくれた。よじ登ったあげくに抱えてもらった記憶も、一度や二度に限ったものではない。僕のきょうだいですら珍しく僕と同じ遊びに興じていた。  抱えられた僕らの遊びはいつも、その巨躯を使って自分たちの影を隠すことだった。綺麗にすっかり隠れてしまうと、影だけは父とユードヴィールのふたりきりに見えたものだ。あのころの僕らにとっては、それが無性に面白かった―― 「それも驚きではあるんだけど、僕が言いたいのはそういうことじゃなくて」  今並んでいる影の大きさは、かつて僕らが見ていたものとは似ても似つかない。  だから僕は記憶の水に沈み込むことなく、話題をしっかりと矯正することができる。 「どうしてそんなことをしたのかって話か?」  うなずくと、クロイツは壁の向こうに目を馳せたようだった。ましろの布《ふ》帛《はく》に隠れて見えない目線の先に、一体なにがあるものか。  同じと思《おぼ》しき方角を見やった僕は、そこに一番星の姿を見る。 「それについては知らんね」  魔術師ははっきりと言った。 「最果てのあるじに誓って言うなら、算段はつくが確定に至らない。ので、言わない」 「便利な言葉だな」  言い返すとこちらを見て、整った面に緩んだ笑みを浮かべてみせる。 「直接的な理由だけなら、売上税が発端《ほつたん》だな。あのとき、西方の領主連中は税率を一斉に上げた上で、その儲けを国庫《こつこ》に納める算段をしてたんだが――」  売上税といえば、物品の売買にかかる税金だ。 「すべての売上から一割が元の税率だっけ」 「そう、それを一割二分に上げるって話になったの。でも、大将はこの街には無理だって話を領主に何回か談判してたんだよな」  僕は街のほうを見る。市街は、壁の上より闇が落ちるのが早い。  その中で明かりを灯しているのがひとの住まいで、明かりが落ちているのが工房だ。おおむねの住居は工房の上階を住まいとしているから、街はその底をわずかに上げたようにも見える。だからもう、その景色を見下ろすことに対する恐怖はない。  この街には百では効かない工房があり、そのどれにも職人たちがいる。彼らの作るものは基本的に、特定のひとりだけで作れるものではない。  たとえばラリューシャの工房なら炭を使い、鉄を使い、道具を使う。炭は炭焼きから贖《あがな》わなくてはならず、炭焼きもよそから木を調達しなくてはならない。そのすべてにかかる税の税率が上がるとなれば、行き着く先は明らかだった。 「はじめのうちは大将だって、工房の連中に組合組ませたりしてたんだぜ」  組合を組ませることで商売ではない体《てい》を作り、税を抑える――それはよくないことだと王都で聞いた。同時にそれがトゥーリーズの手口だとも。 「トゥーリーズの元伯爵は、うっかりその解体を命じてしまったわけですな」 「……その結果がこれか」 「そう言うこと。でもって軍の連中もだいたい職人の家の生まれだ。大将がやるならほとんど全員がくっついて来て、大した騒ぎにもならないくらいの有様だった」  ひひ、と喉を鳴らして笑う声がした。 「誤算と言えば、残りのふたりが意外と友情に篤《あつ》かったことぐらいですな」  残りのふたりとは、すなわちアルシリアとトゥーラの現領主だ。  先生から昔聞いたところによれば、西方三領の都市間を行き来するには馬で半日ほどかかるらしい。ただしそれは地図から算出される理論値であり、山向こうのアルシリアと残りふたつの間は、もっと時間を要するはず。  彼らの友情は一体、どれほどの速度でその距離を埋めて見せたのだろう。 「来るだけ来て、実際に戦闘は起きなかったけどな。大将がここまで出張って来てたから」  どんなにその足が速くとも、エクリールの火は彼らを捉えれば離さない。ゆえに争いは無《む》為《い》だと悟って、彼らは去っていったのだろう。そしてかわりに、政治的な手段でエクリールをこの街から追い出す道を選んだ。  そして王都に訴えないままでいる顛末については、昨日のエクリールが語ったとおり。  王都において政《まつりごと》を取り仕切る王妃は信賞必罰《しんしようひつばつ》を是《ぜ》とするが、必罰を担うことができない者に対してもまた厳しい。おまえたちでどうにかしろと言われるのが恐ろしいのだ、彼らは。  とはいえ僕がここにいる以上、王都も――母も事実に気づいていないはずがない。ならばこの街の安全も、薄氷《うすらい》の上にあるものに過ぎないのだと僕も気づいた。  母は、まだこの街に手を出しあぐねているだけなのだ。  それを思うと、隣で笑う魔術師のほうを見る気は起きなかった。星を映す水面に似た市街の景色だけを眺めて、ゆっくり壁上を歩いて行く。  そのうち、目端に手を振るひとびとの姿が映った。頤《おとがい》を上げれば、まず目を惹いたのは朱《あか》く燃え盛る融《ゆう》雪《せつ》カンテラの火である。手を振っているのは、そのかたわらに立つ軍人たち。  花紺だったはずの軍服は、火の赤と影の黒で綺麗に二色に分《わか》たれている。  同じく白と橙の二色に転じた外套を揺らして、クロイツはすばやくそちらへ駆け出す。その足元に影はない。夜の指先が西の空へと届くまで、残る時間は短いようだった。 「カンテラ運びのゴンドラ、帰りに乗せてくれるってよ!」  そう聞けば、足は俄《が》然《ぜん》と軽くなる。  思わず小走りになる僕の姿に、軍人たちはひどく愉快そうに笑っていた。

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