8

 稚武(わかたけ)と風羽矢(かざはや)は久慈(くじ)に連れられて湯殿に入った。作法などはまったくちんぷんかんぷんだったが、久慈が呼んだ下女たちが張り切ってくれたおかげで、まるで一皮剥けたような心地だった。彼女たちの気合の入りようと、はしゃぐような黄色い声には恐ろしいものがあったが。  自分のことをあれこれ世話されるのに慣れていない二人は、着替えは自分ですると言い張った。だが、残念そうに下女たちが手渡した着物は二人が初めて目にするもので、情けないことに着方が分からなかった。仕方なく、結局は久慈に着付けてもらうことになった。 「……あの、久慈さん。どうして僕まで湯殿に入って、着替えなくちゃいけないんですか」  黙ることを知らない下女たちには尋ねられなかったことを、風羽矢はようやく口にした。皇子(みこ)であると確かめられた稚武が正装するのは当然だと思うが、なぜ自分までもなのか。  久慈は風羽矢の帯をきっちりと締めながら笑った。 「皇子のお側にいる者は、それなりに気取らなくてはいけないものなのですよ。わたしも着飾ることを好みはしませんが、大王(おおきみ)の側近くに控えるためにこうして最低限の贅沢を保っています。わたしが質の悪いものをまとっていれば、大王の質まで悪く見られてしまいますからね」 「そういうものなんですか」 「ええ。周りの者に乞食の格好ばかりさせている王を、あなたは信用しますか?」  風羽矢はあっさりと納得した。にこり、と久慈は褒めるように笑んだ。 「ああ、でも、もうお休みなさる時刻ですから、あまり着込む必要はありませんね。また寝間着に着替えなくては」  先に着替えを終えて風羽矢を待っていた稚武は、素直に顔を歪めた。 「なら、最初からそっちを着ておけば良かったじゃないか」 「大王がいらっしゃいますゆえ、そろそろ」  確信のある声で久慈は言った。  稚武は渋面で押し黙った。湯殿にいる間は、女たちがうるさくて物を考えることもできなかったが、三人きりのこの部屋は静か過ぎた。そして、昨日まで見たこともなかった高級そうな服を着ている自分の姿に、現実を忘れていることが許されなかった。  稚武は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を手に寄せた。 (これが神器……皇(すめらぎ)の証。俺が大王家の血をひくと、証明するもの……)  この身に流れる血のもとが分かった。だが稚武は、よけいに自分が分からなくなってしまった気がした。泊瀬(はつせ)で育った日々が、今夜、この一夜を境に、幻のように遠ざかっていってしまうように思えた。  手際よく風羽矢の着付けを終えた久慈は、ぼうっとしている稚武に向き直った。 「では次は、御髪(おぐし)を結い上げましょう。まずは皇子様から」 「げっ、いいよ、そんなの」 「いけません」  有無を言わさず、久慈は稚武を捕まえて櫛で梳かし始めた。上機嫌に鼻歌まで歌っている辺りが、なお文句を言わせなかった。  解放された風羽矢は、なんだかどっと疲れてため息をついた。そして稚武にかまいきりの久慈の目を盗んで、着付けの時には棚の下に隠しておいた御祝玉(みほぎだま)を取り出した。彼に見つからなかったことにホッとして、首から下げる。稚武ならともかく、この勾玉を他人の目に触れさせることを、風羽矢はひどく嫌っていた。孤児ですと広告しているような気分になるのだ。  勾玉を手のひらにのせ、風羽矢は考えていた。 (あの時……赤く光ったのは、この御祝玉だった?)  稚武が剣に触れた、あの瞬間。風羽矢は自分の胸元に淡い赤い光を見た。思い当たるのは、このちっぽけな勾玉くらいしかないのだ。 (まるで剣の光に共鳴するようだった。神器の、草薙剣の目覚めに)   この御祝玉は、何か不思議な力をもつ玉なのだろうか。それとも、ただの見間違いだったのだろうか――  耳には、髪を引っ張られてぎゃあぎゃあと悲鳴を上げる稚武の声が届いていた。それを笑って流す久慈の声もあった。だが、風羽矢の意識は二人と隔たれたところを彷徨っているようだった。  そんな彼を現実に引き戻したのは、帳(とばり)の向こうからやってくる控えめな足音。それに気づいたのは久慈の方が一瞬早かった。 「――おや……お越しになられたようですよ」  ちょうどうまく角髪(みずら)が結い上がったところで、稚武はなんとか一人前の貴公子に見えるようになっていた。表情はぶすくれたものであったが。  風羽矢が慌てて御祝玉を服の下に隠したと同時に、帳が引かれた。 「失礼するよ」  姿を現したのは大王だった。とたんに稚武の顔が固くなる。  久慈は明るく、どこかからかうように言った。 「もう落ち着かれましたか、大王」 「ああ……独りで静かに考え、覚悟を決めたよ。……しばし思い出に捕らわれていたらしい。気がついたら、いつの間にかこんな時分だった」  久慈の軽い皮肉が通じず、大王は真面目に言った。 「だが、わたしは覚悟を決めたら迅速な男だ。このような夜分だが、なるたけ早く訪れるべきだと思ったから、こうして来た」 「供も無く、お一人で」  少々咎めの色がある久慈にも、大王は鷹揚に頷く。 「今宵はまだ、そこな泊瀬の子らのことを公にしたくない。……湯女たちが、見てくれの好ましい少年たちが来たと騒いでいたが」 「おや、すみません」  久慈は軽く肩を竦めて謝った。  大王はため息をつき、それから稚武をまっすぐに見据えた。見られた方の稚武は緊張を隠せなかった。 「昼間は取り乱してすまなかったな、泊瀬の子。わたしは人間としてまだできていないようだ」  自嘲するように笑う彼に、稚武は「いえ」と細かく首を振った。大王は不意に真面目な顔をした。 「だがそれでも、わたしは大王としての責務は果たすつもりだ。――そしてそなたには、わたしの後継者としての責を負ってもらいたい。待ち望まれた日嗣(ひつぎ)の皇子として」  声は穏やかだったが、揺るぎないものが感じられた。風羽矢が見守る先で、稚武はしばらく迷い、そしてとうとう頷いた。 「それが、俺という生命(いのち)が請け負うべき責なら……俺にしかできないことだというのなら、逃げたくないと思っています」 「強い子だ」  大王は目を細めてほがらかに笑った。 「さすが宮古(みやこ)の生んだ子だな。負けず嫌いなのは生まれつきだろう」  図星だったので、稚武はなんだか恥ずかしくなって返す言葉がなかった。その様子にふっと微笑んだかと思うと、大王は面を取り替えたように真顔になる。 「そうと決まったからには、そなたにはやってもらわねばならぬことが山ほどある。まず、次の戦(いくさ)の指揮をとってもらう」 「戦」  稚武は口先だけで繰り返した。控えていた久慈が眉をひそめた。 「大王、それはいくらなんでも――早すぎましょう。このかたはまだ、兵法など何も知らないのですよ」 「時間は与える。だがそのくらいできないようでは、皇子などと名乗ることは許されない」  大王は容赦なく言った。 「いいな、泊瀬の子。――わたしはそのうち、西の倶馬曾(クマソ)に軍を送るつもりでいる。そなたは我が軍を率い、かの国を滅ぼしてまいれ」  稚武と風羽矢は、唐突に、昨日二人が話していた戦争の話を思い出した。それは確かに昨夜のことであるのに、思いがけず遠い日のことに思えた。 「そなたにだけは話しておこう。…かの国には倭(やまと)の神器を奪われているのだ。このままにしてはおけぬ」  大王の言葉は熱を帯びていた。風羽矢が聞いていた噂は本当だったのだ。倭の神器、その鏡と玉は倶馬曾にある――  稚武は立っている感覚さえ失っていたが、口が勝手に動いた。 「俺に神器をそろえさせようって言うんですか。倶馬曾を滅ぼして」 「いや、それは違う」  大王は強い目をして言った。 「皇の手を離れた神器は、もはや神器ではない。不吉な呪物だ。あれらは秋津国(あきつくに)の禍(わざわい)になる。ゆえに、わたしはそなたに神器を破壊してもらいたいのだ」 「神器を……破壊?」  稚武と同じくらいに、風羽矢も驚いていた。久慈は承知していたらしく顔色を変えない。  大王は続けた。 「三種の神器は分かたれるべきではなかった。あれらの力は強大すぎる。こちらの手にあれば揺るぎない守神となるのだろうが、他に渡れば脅威だ。今や、神器の鏡と玉に宿りたる神力の矛先は、我々に向けられている……」  稚武は手元にあった草薙剣を胸に抱いた。 「鏡と玉が、この国を滅ぼすというんですか。神器は大王の証であるはずなのに」 「剣は秋津国にある」  稚武の胸の剣を貫くように見て、大王は言った。 「残りの二つが滅び去れば、神器はこの剣だけだ。秋津国に禍を成すというのなら、鏡も玉もいらぬ。消し去ればいい、倶馬曾とともに。――神器は神器をもってしてでなければ破壊できないのだ。今あの鏡と玉を滅ぼせるのは、剣の宿主であるそなただけなのだよ」  稚武も風羽矢も、胸がざわめくのを感じていた。兵に志願して手柄を立てようと無邪気に言っていた昨日のことが、もはや夢のようだった。 「だが、さすがに今日まで隠(こも)り処(く)にいた子供に民を導けというのも酷な話だ。四年――いや、三年の時間を与える。出立はその夏の初めになるだろう。それまでにできうる限り皇子としての知識と実力を身につけ、怠りなく用意せよ」 「はい」  そう答えるしか、稚武には許されていなかった。  大王は、そういえば、と気づいたように言った。 「泊瀬の子、確か名は稚武と言ったな。……だが、その名は皇子にはあまり似つかわしくあるまい。――大泊瀬(おおはつせ)と名乗れ。そちらの方が幾分か格好がつく」  稚武はしばしきょとんとした。 「大、泊瀬…俺の名に、ですか?」 「そうだ。『大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)』、と。明日からはそう名乗るが良い」  大王は次に風羽矢を見やった。 「そなたも泊瀬の里の子か」 「は、はい」  突然声をかけられて、風羽矢は一瞬頭が真っ白になった。 「僕は、その……、乳兄弟なんです」 「そうか」  大王はふと嬉しそうな顔つきをした。 「名は?」 「風羽矢です」  緊張を隠せない風羽矢に、大王は穏やかながらも重みのある声音で言った。 「では、風羽矢。ここまでついてきたからには、そなたはこれから先もずっと皇子についていく覚悟があるのだろうね」 「――はい」  これはもう決意していたことであったから、風羽矢は力強く答えた。 「何があってもか。皇子のためになら命を投げ出すことも厭わぬか」 「はい」  若い少年の真っすぐな眼差しに、大王は微笑んで頷いた。 「よし、そなたの覚悟は受け取った。これからしばらくの間は、大泊瀬とともに、久慈のもとについて様々なことを学ぶといい。そなたには皇子の一の側近として働いてもらおう。そのためには皇子と同じ知識を得て、同じ考えを持つことが重要だ。皇子ではないが、皇子と同じだけの苦しみを知っておかなければならない。……いいのだね、本当にそれで」 「はい……! ありがとうございます」  風羽矢の頬が喜びで上気した。――稚武のそばにいられる。皇子となり、ゆくゆくはこの国の王となる彼の姿を、隣で見届けられるのだ。嬉しすぎて叫びたいほどだった。  大王は満足したように息をつき、身を返した。 「今夜はゆっくりと休むが良い。明日には、正式に大泊瀬を皇太子として公に広める。これから忙しくなるだろう。今のうちに充分に体を休めておけ」  そう言って、大王は部屋を後にしようとした。 「――待ってください」   とっさに呼び止めたのは稚武だった。すると、大王は素直な態度で立ち止まり、彼が大泊瀬と名づけたその少年を振り返った。  稚武は一瞬怯んだが、草薙剣を握る手に力を込めて負けまいとした。 (向き合っている……大王と。やっと、真正面から)  言わなくては。だが、言葉が出なかった。言いたいことはたくさんあるはずなのに、何一つとして喉から先に出ようとしない。呼び止めておいて黙りこくっても、稚武を見つめる大王は顔色を変えなかった。ただ、待っている。 「……大王、俺は……あの」  やっと声が出たと思ったが、その瞬間、喉が震えていることに気づく。  稚武と大王は随分と長く、沈黙のうちに見つめ合っていた。風羽矢と久慈は息を呑んで見守っている。 「大王……俺……」  稚武の目に涙が浮かんだ。瞬間、彼の脳裏に泊瀬で育った十四年間がざあっと駆け抜けていった。  ――子守唄を歌ってくれる真鶴(まづ)。『お前を生んだ宮古はね、最期に言ったのですよ、お前は大王家の血をひいていると』。井戸水を汲む桐生(きりゅう)の背に負ぶられた時の心地よさ。五十鈴(いすず)の柔らかい微笑み。那加女(なかめ)と加那女(かなめ)が生まれたときの喜び。悪戯に失敗して稲彦(いねひこ)に叱責されるのは日常茶飯事だった。  里に住む人々は優しく、温かい。『泊瀬は良きところじゃあ。機織の音がよく響く』。『隠り処っちゅうんはな、神様がお休みになられるところさね。本当のまほろばはここなんよ』。『あんたは顔だけはかっこいいけど、あたしたちに冷たい。女嫌いって本当なの?』。  ――隣にはいつも風羽矢がいた。何をするにも二人一緒が当たり前のように。  稚武は泊瀬が好きだった。  けれども、この十四年間、胸に封印していたものがあった。  どんなに寂しいときも哀しいときも、その言葉だけは決して口にしなかった。どうしようもない心細さを押し殺してきた。答えをくれる人などいないと知っていたから。  ……だが、今。 「俺の……父は、誰なんですか」  一筋だけ涙がこぼれた。  試煉によって証明されたのは、稚武が大王家の誰かの血をひいているということだけであり、目の前に立つこの大王の子であるかは別問題なのだ。それを、稚武はよくわかっているつもりだった。  大王はすぐには答えなかった。だが、答えを探しているわけでもなさそうだった。ただ稚武の前に立ち、はにかむように笑う。その笑みの意味するところは言葉よりも明らかだった。  大王はゆっくりと稚武に歩み寄り、彼の頭に手を置いた。 「わたしだよ」  稚武の目からさらに涙が溢れ、彼は急いで腕でぬぐった。風羽矢も、もらい泣きしたように目頭が熱くなるのを感じていた。  稚武は涙を人前で見せることはほとんどなかった。声を上げてなくことなどはもっとない。だが彼は、大王を前に、溢れる涙だけはこらえきれなかった。 「……大王、俺は、あなたの名さえ知りません」  今度はすぐに答えが返った。 「若い頃は、穴穂(あなほ)と呼ばれていた」  稚武は止まらない涙を懸命にぬぐった。その様子は、はたから見ると悔し涙のようにすら見えた。 「わたしを父と呼びたくば、そのように呼んでかまわない」  大王は言い、背を向けてゆっくりと出て行った。 「見事倶馬曾を平定して見せよ、大泊瀬皇子。そうすれば、この国のすべての民がそなたを日嗣と認めるだろう」 「はい…っ」   稚武は挑戦するように答えた。他の誰かよりも、大王にこそ認めてもらいたいと思った。  しゃくりあげて必死に泣き止もうとする稚武に、風羽矢は胸ではなく腕を一本貸した。  ――幼い頃からそうだった。稚武はめったなことでは泣かなかったが、それでも泣かずにはいられないとき、人目のつかないところまで行って隠れて泣いた。  だが、風羽矢だけはすぐに彼を見つけ出すのだ。  そういう時、甘やかすように抱きしめるのは何か妙な気がして、風羽矢は決まって片手を差し伸べるのだった。泣きじゃくる稚武はその腕をぎゅっと握りしめ、胸の痛みを風羽矢と共有するのだ。それが二人の呼吸だった。   久慈がどこか遠い目をして言った。 「大王は優しいおかたです。……だが、それでいて、身の内に抱えきれぬほどの孤独をもったおかただ。誰もあのかたを癒して差し上げることはできない。だから大王はますます他人から遠ざかり、言葉を使うのが下手になっていくのです。今、あのかたの笑みを見ることなどは、わたしでも稀になってしまった。……大王の座というのは、かくも重く辛く、暗いものなのかもしれません」  久慈は稚武に微笑みかけた。 「そのようなかたの言い様ですから、うまく通じなかったかもしれませんね。僭越ながら、わたしから申し上げておきます。大王はあなたに、『父と呼んでほしい』とおっしゃったつもりなのですよ」

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