極東黙示録1927 | 第壱章『帝都に舞う式鬼、霊鎮めたる巫女』
寝る犬

第壱話「帝都の妖魔―ていとのようま―」

 全力で、逃げていた。  帝都と言えども|市ヶ谷濠《いちがやぼり》の辺りにはガス燈もまばらで、九条大和《くじょうやまと》は、伸ばした足がいつ地面ではない場所を踏んでしまうかと気が気ではない。  朔《さく》の夜《よ》の薄い月は、白い息をぼんやりと浮かび上がらせ、少年の心細さをただ助長するだけだった。  一本の電信柱まで駆けてきた大和は、すぐ後ろに感じていた追手の気配がなくなったことに安堵し、思わず寄りかかって大きく喘《あえ》ぐ。  真新しい軍服の襟のボタンを外し、金色に輝く星のバッジが誇らしげに飾られた軍帽を脱いで、汗を拭《ぬぐ》った。  その途端、軍服姿からは思いもよらない長髪が、帽子から溢れ出る。  整った目鼻立ちと白い肌も相まって、柔らかな黒髪の縁取るその顔は、まるで少女のようであった。 「……また《《あれ》》だ……なんなんだ一体……?」  まるで今にも《《あれ》》が襲いかかってくるのではないかと恐れるように、大和は周囲を見回す。  呼吸を整えた彼が、もう一度|濠《ほり》の方へ目をやったのと、水をたっぷり吸った着物が地面に落ちたような音がしたのは、ほぼ同時だった。 ――べちゃ……ずるり。  ――べちゃ……ずるり。  音はゆっくりと大和の方へ近づいてくる。  ぼんやりとした姿を認識した彼は、思わず漏れそうになった悲鳴を無理矢理に飲み込んだ。  水に濡れた警官であろう。ひと目見ただけでは――というよりも、《《大和以外の人には》》そうとしか見えていない。  しかし、幼い頃から、大和の左の目には、それを操るなにか大きなモノの姿が見えるのだ。  とは言え、襲《おそ》われるのは初めての経験だ。  かの関東大地震《かんとうだいじしん》以降、怪異《かいい》と大和の呼ぶ異形の者たちが、大和に対して積極的に近づいてくるようになったのだ。  少しずつ。確実に。  そして今日この日。大和が陸幼を飛び出したまさにこの日に、怪異は大和へと、その湿った水かきのある手を伸ばしたのだった。  赤みを帯びて暗闇に光る大和の左目に照らされ、警官の姿と重なった《《それ》》は体を震わせる。  三メートルはあろうかという高みから、腐った魚のように白濁した目が、大和を見下ろした。  大和は《《それ》》を表現する言葉を持たない。体は人間を醜《みにく》く歪めたような形をしていて、上半身が不格好に大きかった。皮膚は膿んだ傷口のように爛《ただ》れ、ジクジクと腐液《ふえき》をにじませている。  そして、顔。  魚類か、両生類か、そんなことすらも定かではない巨大な顔が、盛り上がった肩と地続きになって、裂けたように真っ赤な口と、濁った目とともに乗っていた。  冒涜的で巨大な魚――あるいは蛙――が、水かきのある右手を上げ、寸刻《すんこく》の狂いもなく警官も右手を上げる。  その手に握られたサーベルが鈍く輝くのが見えた。  風を切る音。  振り下ろされる凶刃。  既《すんで》のところで、大和は銀色の刀身から身をかわした。 ――確かに、《《サーベルからは》》身をかわしたはずだった。  それでも、遠心力により人の拳の何倍もの速度で襲い来る、魚のごとき怪異の拳は、強《したた》かに小さな体を打ち据える。  ヌメヌメとした拳に、そして硬い地面に叩きつけられた大和は、十メートルほども吹き飛ばされた。  一度。二度。砂煙を巻き上げて、地面を滑る。  小さくうめき声をあげつつも帽子を拾った大和は、なんとか体を起こし、額から流れる砂の混じった血を拭った。  四肢に広がる痛み。鉄の味。  ほんの数年前に経験したばかりの、関東大震災の記憶がよみがえる。  大地が揺れ、街並みが瓦礫と化し、多くのものが消失していく中、大和の赤い左目だけには、帝都を暴れまわる赤い龍の姿がはっきりと見えていたのだった。  この怪異は、あれに比べればひどく矮小《わいしょう》だ。  帝都を狙ったような大規模な攻撃ではない。それでもこれは、誰かの悪意が呼び寄せたものであり、放っておけば誰かを――少なくとも直近では大和自身を――害するものだ。  同年代の子供達の憧れである金色のバッジが輝く軍帽をかぶり、血と砂を吐き捨てると、大和は腰の軍刀を抜き放った。 ――殺されてなど、やるものか。  大和の軍刀は官製品の三十二年式サーベルではない。日本刀に黒革鞘《くろかわざや》、菊の御紋の象嵌《ぞうがん》の拵えをした、いわゆる特殊軍刀である。  片手でしか握れないサーベルとは違い、両手で構えることのできるこの軍刀は、体格に劣る大和の命綱であった。  小さな体を精一杯に使い、軍刀を上段に構える。  白濁した眼球の怪異が口の端を持ち上げ、笑ったように見えた。  大和は頬が熱くなるのを感じ、怪異を睨みつける。  遠くで野良犬の遠吠えが聞こえた。 「……フッ!」  短く息を吐き、地面を蹴ると同時に軍刀を振り下ろす。  怪異は警官のサーベルを持ち上げ、大和渾身の打ち下ろしを受け止めた。  響く金属音。  打ち払われたかに見えた大和は、その反動を逆手に取り、舞うように体をひねる。  体が浮き、そして落ち、横薙ぎにはらわれたサーベルを躱《かわ》す。  そのまま大きく体を沈めた大和は、円を描《えが》くように切っ先を跳ね上げ、軍刀は真っ直ぐに警官の喉元へと向かった。 ――ぐじゅっ  湿った音が闇夜に響く。  軍刀を真っ直ぐに突き出した体勢の大和は、刀身から流れる怪異の血を見た。 「ぐ……げ……げげ……ぐけけけけ」  軍刀がきしみ、怪異は哄笑《こうしょう》する。  怪異の左手は、喉の前でしっかりと軍刀を受け止めていた。その腐肉のような手のひらに、大和の渾身の一撃は確かに爪痕を残してはいる。しかし皮膚に食い込んだその刃を、大和はどうしても動かすことが出来なかった。  警官のサーベルが、ゆっくりと持ち上がってゆく。  大和が見つめるその先で、高々と持ち上げられたサーベルが、ぴたりと狙いを定める。  刹那《せつな》、時が止まったように大和には感じられた。  びょう、と風が鳴る。  上空から押し寄せる殺気に、大和と怪異の間で均衡を保っていた気は、その呪縛を解かれた。  弾かれるように左右に別れ、飛び退《すさ》る。 ――ドンッ  一瞬前まで大和たちが競り合っていたその場所に、夜の闇よりも暗い塊が、空気を裂き舞い降りた。 「あらら、避《よ》けられちゃったよ」  真っ黒なスリーピース、長身の男は笑いながら立ち上がる。  その手に握られた日本刀は、大和が今までに見たことのない色をしていた。  赤黒い肌。木目のような刃文。そして何より、暗闇で自ら光を放ち、ぼんやりと輝いている。  男はスーツと同じく真っ黒な中折れ帽を片手で直し、その不気味な刀を肩に担いだ。 「……さて、困ったな」  威圧するでもなく、帽子のつばの下から大和と警官を眺める。  その耳に付けられた小さな機械から、雑音混じりに女性の声が流れた。 『……少尉《しょうい》。飯塚《いいづか》少尉。状況を報告してください』 「飯塚だ。……良い報告と悪い報告があるけど、どっちから先に聞きたい?」  それぞれに刀を手に持った男三人がにらみ合うこの場の状況、緊迫した女性の声とは裏腹に、飯塚の語り口は場違いに軽い。  しかしそれでも、彼から発せられる強い殺気に、大和も警官も、指先一つ動かせなかった。 『少尉。どちらでも構いません』 「おっと、つれないねぇ……それじゃあまずはいい報告と行こうか。予定通り、四谷区尾張町で目標《バケモノ》と会敵《かいてき》した」  飯塚は艷《つや》やかな黒革のブーツをジャリっと鳴らし、視線を警官から大和へと移す。  肩に担がれた刀はそのままだったが、大和は首筋へそれを突きつけられたような気持ちになり、思わず固唾《かたず》をのんだ。 「それでな、悪い報告の方だが……ここにはバケモノが《《二匹》》居るぜ」  飯塚の視線が逸れたからか、怪異は息をするのを思い出したかのように咆哮を上げる。  警官のサーベルと一緒に、ついさっき大和を打ち据えた巨大な拳が振り上げられた。 「あぶないっ! 後ろっ!」  思わず叫んだ大和の前で、全身黒尽くめの偉丈夫が体を沈める。  地面をこするように、赤黒い刀が闇を切り裂いた。  刀身の輝きは増し、地上にもう一つの三日月が浮かび上がる。 ――キンッ  甲高い金属音が糸を引いた。  折れた警官のサーベルが、大和の足元に突き刺ささる。  そして大和の左目には、切断された水かきのある怪異の腕が、バシャリと地面に落ちるのが見えた。 「おっ、当たったかな」 『当たったかなって、少尉! 天目一箇《あめのまひとつ》を付けてないんですか?!』 「あぁコレ。格好悪いんだよねぇ」  言いながら、飯塚は耳の機械から奇妙な単眼鏡《モノクル》を引き出し、左目にかざす。レンズを通して見る警官の背後には、紫色の靄《もや》が、巨大な人の形として映っていた。  その右腕は、中程から見事に切断されている。  満足したように一つ頷いて、飯塚は一歩踏み出し、怪異の口へと刀を突き刺す。手応えを感じたのだろう、そのまま横薙《よこな》ぎに刀を振るうと、無造作に怪異の首をはねた。 「……さて、と」  ひゅんと風を裂き、刀を肩に担ぐ。どうやらこの姿勢が、彼の構えのようであった。  背後で警官と怪異が湿った音を立てて崩れ落ちたが、飯塚は大和だけに注意を向けている。  天目一箇《あめのまひとつ》越しに見る大和の姿は、紫色の靄《もや》を腹の中に収めているように見えた。 「こっちも、やらなきゃならんのだろう?」 『はい。式鬼《しき》反応、確認しました』 「……やだねぇ。仕事とはいえ、子供を斬るってのは……」  黒革のブーツが地面を踏み、大和との距離を詰める。  周囲の気温が急激に下がったように、大和には感じられた。

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