戴冠、或いは暁を待つ | 一章:女王と新しい仕事
かなた

06

 役人の男はダーヴィトと名乗った。彼が教えてくれたところによると、軍服をまとった女のほうはケイというらしい。  クロイツとの言い争いに及んでいない彼女は、どちらかといえば寡黙だった。それを補うようにダーヴィトのほうは話好きで、的確に仕事を捌《さば》きつつ、いろいろな話をしてくれた。  たとえば通関《ここ》を出入りする荷物とひとの行き先、飴ばかり食べている我儘《わがまま》な猫のこと。  それから、このあたりで採れる茶として飲める野草について――これについて語るときばかりは、やたらと熱を帯びた口ぶりだった。  そんな彼が苦労して集めたという野草茶を、クロイツは勝手に煎《せん》じて淹《い》れてくれた。勧められるまま口をつけ、彼自身が飲もうとしない理由に思いが至る。  思わず見やった彼の顔には、年齢より幼い子どものような笑顔が浮かんでいた。 「ちなみにそいつは冷えるともっとまずい」  ここに来てようやく口を開いたケイは、端正な部類の顔に渋いものを貼り付けている。 「口直しも今し方尽きたしな」  どうやら彼女には、この野草茶を飲む機会が幾度となく巡ってきたようだ。クロイツが渡してしまった缶の飴は、彼女がこれを飲むための苦肉の策であったらしい。  それを持って行った子どものことを思い出しつつ、僕はなんとか野草茶を飲み干す。飲み終わってさえしまえば、後味は意外にすっきりとして、苦味は後を引かなかった。 「おまえ、意外と悪食だな」  クロイツは汲んで来た水を薬缶《やかん》に足し、それをふたたびストーブの火にかけた。 「二杯目、行くか?」 「……いや、それはいい」  そうかと点頭《てんとう》し、彼は膝上に置いた薬草茶の缶をもてあそぶ。ケイは瞳孔の開いた目でそれを見つめていたが、あるとき不意に背筋を伸ばした。 「ケイ?」  ダーヴィトの声に、彼女は答えない。どうしたのかと問われるより前に、軍服の裾を翻して立ち上がる。インク色の髪に尾を引かせて、彼女は一直線に毛氈の向こうへ馳せた。クロイツはそんな彼女を見送ってから、足許に投げてあったブラシを手に取る。  驚いたふうなど欠片もない、悠々とした所作だった。 「倉庫狙いの連中じゃないか!」  窓から外をうかがい見たダーヴィトが、悲鳴のような声を上げる。 「クソ、実害があるようなやつはきちんと教えてくれ!」 「用事があるって言っただろ、はじめに」  焦るでもない返答に、ダーヴィトは頭《かぶり》を振った。 「とにかくまだ被害がないところに鍵をかけないと。えーと、君は――」 「こいつは俺がここで見とくよ。どうせ要るだろ、留守番」  いつもどおりの顔と口調で以て、クロイツは言った。対して首肯を返してから、男もまた外に駆け出して行く。それを見送り、白衣の魔術師は僕の袖を引いた。  目指す先は窓からも出入り口からも等しく遠い、奥まった壁際である。 「知ってたのか、気づいたのか、どっちだ」  低い声で問うと、魔術師は鼻で笑った。 「知らなきゃこんなところまで来ませんでした」  小屋にはストーブと椅子を除き、下に置かれたものはなかった。机も壁に備え付けだ。  鎖で吊るされた棚の上へ、クロイツは背伸びをして茶葉の缶を置く。そこに焦りの色はなく、かわりに冗談のような優雅さがあった。 「はっきり教えていれば、もう少し騒ぎにならなかったんじゃないか」  小屋の外からは、騒音と呼ぶには形のはっきりとした怒声が聞こえる。それを受けて口から溢れた声には、相手を責める色が濃い。僕は慌てて口を押さえた。  対してクロイツは申し訳のないふうを見せるでもなく、ましてやこちらを咎めようとするわけでもない。 「そりゃあ、おまえ」  彼はここに来て、いよいよその紅を引いたような口の端を持ち上げた。 「あいつらに騒いでもらわなきゃ、おまえが今日大将に報告できることなんか一個もねぇだろ。それに――まぁ、いいや」  目を剥いた僕の視界で毛氈が跳ね上がったのと、ブラシの柄が回ったのは、ほぼ同時のことだった。一拍遅れて薬缶が宙を舞い、悲鳴が鼓膜に叩きつけられる。  それは驚愕ゆえか、激痛ゆえか、あるいはそれ以外の理由ゆえか。なにひとつとして悟らせることのない、長く尾を引く大音声。 「やっぱりブラシは駄目ね。どうも重心がよろしくないわ」  クロイツはのんびりとした声音で宣《のたま》う。  彼の姿の向こう側、白く湯気の立つ中で、倒れ伏したひとの姿があった。かたわらに転がる薬缶を見れば、なにが起きたかはあまりに明白だった。 「で、だ。外の盗みは順調かい、お兄さんたち」  問われた側は答えなかった。  いつしか黙りこくったひとりを跨ぐようにして、小屋へ入って来た姿はふたつ。床に転がる先のひとりも含めて、全員が白花《しらはな》色の外套を着ている。ひとりは腰に帯びた剣の鞘にも同色の布を巻いていた。  その青白い色合いが、雪の影に紛れるために用いられるものであることを、僕はたしかに知っている。だから当然、それをまとう人間が、どういう存在なのかも知っている。 「猟兵《りようへい》隊――」  三人一組の行動、白花の外套、ひとりだけの佩刀《はいとう》。そういう形で動く手合いは、この国においてけっして多くはない。  彼らは本物の狩人でこそないが、それと同じ名を冠することを許されている。かつてこの国が戦時下にあった折に、多大な戦果を挙げた者たち《狩人》と同じ呼び名を。 「そう、猟犬どもだ。金でひとを雇えるんだから、めちゃくちゃ賢いぞ」  外からは怒声が聞こえる。ついで脅しかけるような獣の咆哮と、物の壊れる鈍い音。  耳を澄ませるようにわずかな沈黙を挟んで、クロイツは言葉を継ぐ。 「逃げられるなら逃げてもいい……と思ったけど駄目そうだな。そこにいな」 「命乞いはしないのか」  くぐもった声に応じたのは、第一に木材が折れる音――魔術師がブラシの柄の付け根に足を載せ、体重に任せてへし折った音だった。 「自分がされて困ることはするなって、母ちゃんに教わってねぇのかよ」  続く言葉は不機嫌さを隠そうともしない。  柄から分たれたブラシの先を蹴り飛ばすのに合わせ、先に口を開いた猟兵が笑った気配があった。もっとも彼の顔は外套と揃いの布で隠されているから、錯覚でないとは言い切れない。それでも彼の目がクロイツのほうに据わっていることだけは、僕にもわかった。  達人の試合というものは、こうして睨み合いで勝敗が決するのが通例らしい――とは先生の言。だから僕は彼らの邪魔をしないよう息を潜めて、壁沿いに三者から距離を取る。  摺り足気味に後退する足裏から、砂礫《されき》の擦れる音がした。 「あいかわらず、魔術師というのは潔い生き物だ」 「そこまでわかってるんなら、風避けの護符は用意して来たんだろうな」  止まない話し声に、まぁそんなものは大概嘘ですよ、と笑った獣の言葉が脳裏を過《よ》ぎる。  僕にとって、一等親しい獣の言葉だ。彼は、今はもう僕のそばにいない獣でもある。それはヒトの姿をした父の守り手、原初《はじまり》の王が交わした契約の執行者。もしくは単純に、王の獣と呼ばれる生き物。  宴席に現れた凶手《きようしゆ》から僕らを守ったその姿を前にして、こうして後退ったことがあったのを覚えている。獣たちは嘘をけっしてつかない生き物であるために、彼の口からまろび出た言葉は、僕ときょうだいを怯えさせるには十分過ぎたのだ。  とはいえ、力と呼び得るものを凝《こご》らせたようだった父の獣は、今僕の目の前にいる魔術師の華奢な姿とは似ても似つかない。 「ま、使う気もねぇから買って来てたら金の無駄なんだけどな」  それに、あのひとはこうやって軽口も叩かなかった。  だから今僕が抱いているのはただの感傷で、現実は命の危機に晒されている事実があるだけだ。  ――鞘《さや》走《ばし》りの音がする。猟兵ふたりが、腰裏の鞘から短剣を抜く音。錆止めの黒で染められた刃は、窓からの光を返さなかった。  狩人の名を冠する猟兵はもはやその本分を外れ、市街戦に向いた徒手空拳での格闘にも長けると聞く。そんな彼らがあえて獲物を手にした理由は明白である。  クロイツの魔術に対して警戒しているのだ。  もし僕が彼らの立場であっても、きっと同じように刃を手にしていただろう。魔術というものは、そもそもが竜の威光を知ら示す奇跡の顕現。魔術師は斯《か》く在《あ》れかしと定められた世界の形を捻じ曲げ、同じだけを正す。たとえ彼に使える魔術が三種であっても、そのひとつひとつに如《い》何《か》なる力があるとも知れないからである。  けれどもクロイツは、向かって来る猟兵たちに対し、魔術による迎撃を行わなかった。魔術が用いられていないとわかるのは、佩刀した側の猟兵めがけて、なんのためらいも見せずに踏み込んで行ったせいである。  その唇から溢れるのも、助力の請願とは程遠い烈帛《れつぱく》の声。遅れて、黒塗りの短剣とブラシの柄が噛み合った。  袈《け》裟《さ》懸《が》けに振るわれた刃は、けっして遅くない。しかしながら逆袈裟に振り上げられた柄は、両断されることなく一撃を受け止め、勢いそのままに押し込まれる。  肉を打ち据える鈍い音に続けて、クロイツはさらに踏み込んだ。刺繍の施された裾を掠める二本目の刃には目もくれず、先に打ち合った猟兵の顎を柄の先端でかち上げる。体が後ろへ傾いだところで腹部へ靴裏の一撃。浮いた足許を払った柄が、長躯を砂の上に引き倒す。 「くそ、あいつ……!」  未だ二本の足で立った最後のひとりは後退し、得物を逆《さか》手《て》に持ち替えた。 「……ん?」  その心底憎々しげな声音に対し、クロイツは自然な動作で彼のほうを見る。 「おまえ今、あいつって言ったか」  外れかけたフードから覗く花顔《かがん》が、見る見るうちに嘲りの色に染まっていく。 「おまえら、そいつの言った話を端《はな》から信じてたのかよ。おめでてぇ頭だな。俺はおまえらごときに魔術なんて使わねぇぞ」  絵本の猫のようなにたにた笑い――たしかに、猟兵たちは最初からクロイツを魔術師であると判じていた。それは服装を受けての判断だと思っていたが、事実は違うらしい。  彼らははじめからクロイツを魔術師だと知っていた。  それゆえに、先のふたりは単純な暴力による洗礼を受ける羽目になったのだ。魔術師という生き物が、己の魔術を頼った迎撃を敢行するものだと思い込んでいたばかりに。 「探知の術くらい使っていただろう」  残された猟兵のくぐもった声に、憎悪と呼び得る気配はもうなかった。  彼らは自分たちの名を誇る屈強な兵《へい》科《か》である。ひとり残された状況であっても、まだ任務を遂げる意欲が残っているのだろう。  クロイツはそれを悟ってか否か、呆れた調子で言葉を返す。 「幸い耳はよく聞こえてね、そんなもんは覚えようと思った試しもねぇや」  その言葉に、僕はわずかに目を細めた。違和感と呼ぶには些細なささくれが、思考のどこかを掠めたような気がする。  その正体をたしかめる前に、先ほど倒された猟兵が首を振りつつ立ち上がった。短剣はすでにその手中にないが、構えた拳には殺意がある。 「お、本気で殺しに来るか? いいぜ、相手してやる」  笑い含みの声への返答はない。かわりに短剣を握ったほうが砂を蹴り立て、自身が空けた距離を埋める。もうひとりは剣を抜くのではなしに、音を立てずに壁際へ下がった。ストーブを回り込むようにして、短剣とブラシの柄を交わらせる二者のほうをうかがい見る。  彼の目的は明白だったが、それをクロイツに告げることはできなかった。  大粒の砂礫を踏み砕いて振るわれる刃が立てる風切り音は、声を出そうという勇気を根こそぎどこかへ持ち去ってしまった。ゆえに、僕は首をすくめて目を閉じる。  しかしながら視覚を閉ざせば、聴覚は嫌でもそれを補おうとしてくれるものだ。つまりは外からの物音のほうが、一段とよく聞こえる形になる。  鼓膜を震わす争いの音は、壁を挟んでなお、どうしたって怖かった。  二種の音を天秤にかけ、僕はおそると目を開く。視界に広がる戦況は、さして変わっていなかった。短剣を手にしたひとりがクロイツに張り付き、その相方は一定の距離を保って音もなく移動する。  ――改めて目の当たりにした光景に、僕はようやく例のささくれの正体を知った。音がないのだ。  本来であれば、砂の上を歩けばなにがしかの音がする。なのに、僕の耳には何も聞こえなかった。だと言うのに、クロイツはひとりめの侵入に合わせて過《あやま》たず薬缶を投げた。もしも猟兵が口にしたとおりに、人間を探知する術でも使っていたなら、それは大して難しい芸当ではなかっただろう。しかしクロイツは、ほかならぬ魔術師の言葉で術の使用を否定した。  一体どれほど耳が聡《さと》ければ、猟兵たちの来訪に気づけたというのだろう。  あるいは僕の注意が足りていなかっただけで、普通は気づく程度の音だったのか。たしかによくよく考えれば相手は三人、少しくらい音が立っても――三人?  不意に地面を見る。もうひとりがいない。  慌てて顔を上げた刹那に、視線が交わった。肩で息をしながら、ようやく窓辺の机に手をかけたばかりの相手と。  濡れた覆面を剥ぎ取った顔はまだ若い。少なくとも、僕よりはずっと幼い。少年と呼んで差し支えない年齢だろう。  僕は、驚いた顔をして彼を見つめていたような気がする。赤土色の目を見開いて、彼もまたしばらく僕を見つめていた。  見合ううちに驚きから解放されたのは、若い猟兵のほうが先だった。震えながら伸ばされた手が、机の上から割符の束を取ろうとする。一本の紐に綴《つづ》り直されたそれは、替えの利かない滞在証――ひとは誰でも、自分が滞在する土地にこれを預けることが課される。  行政の側はそれを元にひとを管理する関係上、割符を預かる限り他領からであっても持ち主を召喚することが認められ、 他領もその協力を義務付けられている。つまりあの机の上にあるのは、難民たちにとってエクリールの庇護の証である。 「それは駄目!」  思わず出た大声に対し、構うなと誰かが叫んだような気がした。それには無視を決め込むことにして、僕は腕を伸ばす。割符を綴る紐を掴んで引き寄せ、両腕に抱いた。しかしながら残念なことに、僕には逃げる先がない。  出入り口から逃げるには佩刀した猟兵が邪魔だ。窓はものの受け渡しができる以上には開かないし、僕には二重窓を叩き割るほどの力がない。  迷う最中に、肩にかけられた手があった。驚くより先に、身体の向きがくるりと変わる。 「動くな!」  叫びは耳許から。続けて、首筋に冷たいものの当たる感触があった。  にわかにクロイツが得物を引き、砂上を滑るようにして間合いを開く。対するふたりの猟兵たちは、間合いを詰める素振りを見せなかった。 「動かないでやるのは吝《やぶさ》かじゃないがね、少年」  ストーブの間近で、魔術師はつまらなそうにブラシの柄で地面を突いた。その上に手と顎を重ねて、先程まで争っていた猟兵たちを見る。  その視線の先で、佩刀した猟兵がこちらに顔を向け、緩く首を左右に振った。 「先輩だって、こう言ってるよ。別に殺しが主目的じゃないんだろ?」  短剣を握った猟兵は、あいかわらずクロイツを見つめている。  構えこそ取ってはいないが、殺気と呼べるものは薄らいでいない。  思い返してみれば、彼の役割はクロイツの足を留めることのように見えた。そのまま自分が仕留められればそれでよし、得物を振りづらい至近距離を嫌って逃げれば、もう片方が仕留める――そういう戦法に沿った動き。彼は今でも隙さえあれば、クロイツを殺しにかかる肚《はら》なのだろう。  しかし魔術師は、今なお見合うことでそれを許さない。その顔にどんな表情が浮かべられているのか、僕の位置からうかがい知ることは叶わなかった。 「動くな、と言った」  同じく彼の表情を見い出せない少年の手は、ひときわ強く震えている。おかげで僕は逆にひどく冷静になった。絶対に彼には渡すまいと、割符を抱いた腕に力を込める。  それを知ってか知らずか、魔術師から投げかけられる声はのんびりとしたものだった。 「なぁ少年、お兄さんはめちゃくちゃ親切だから教えてやるんだけど」 「……なにを」 「おまえが捕まえたそいつは間抜けな顔してるけど、お忍びの貴族の御令息だそうだ。もし殺したら、俺がおまえの先輩を殺さない理由はなくなるので、よく考えた上で殺しなさい」  歯を軋《きし》らせる音は、こちらの耳許よりわずかに下から。 「割符をよこすなら離してやる」  続く言葉に、僕は可能な限り首を横に振った。それはできない相談だ。具体的になんの目的でこれを所望するかは知らないが、ろくでもない結果だけは目に見えている。  だから、僕は絶対にこれを手放すことはしない。 「渡さないよ。そもそも、僕を殺したら君のほうが困るんじゃないのか」 「いいから!」 「嫌だ!」  なにせこの腕の中には、あの親子の割符もあるのだ。彼らの目から逃れたくせに、僕は抱いたものを離したくなかった。言い争ううち、外の騒ぎは静まりつつある。 「撤退だ、ストー」  結局一度も剣は抜かないままで、猟兵の片割れが低い声でそう告げた。それはよくよく注意して聞けば、ずいぶんと年ふりた声のように思う。短剣を手にしたほうは、ここに至るまで一切動かないままだった。おそらく追撃を警戒しているのだろうが、当の魔術師にその気配はない。  三人目である年少の猟兵は、ついに舌を打って短剣を納めた。彼は足音もないまま床を駆け抜け、そのまま外へと飛び出して行く。残るふたりが後に続いた。  猟兵たちが姿を消したのち、外の騒ぎもけっして長く続かなかった。むしろ彼らは騒ぎが鎮圧されつつあるから撤退したのだ――とクロイツは言う。 「外のは陽動ですなあ。実行犯はものの見事に失敗したわけだけど」  手にしたブラシの残骸で肩を叩きながら、彼は僕のほうへと歩いて来る。その顔を見上げる必要があったのは、僕自身がまた地面にへたり込んでいたせい。 「しかしおまえ、意外と神経太いのな」  伸ばされた手は僕のものよりずっと小さい。そっと握った感触は見た目のとおりに肌理《きめ》細やかで、暖かさを除けば白磁にも似ていた。 「……自分でも意外だった」  手を引かれて立ち上がりながら、僕は大きく嘆息した。 「普段なら絶対にできなかったと思う」 「火事場の馬鹿力みたいなもんかねぇ。知らんけど」  クロイツは立ち上がった僕を見上げて、黒いまなこを細める。 「とはいえ勢いで殺されない保証はないんだから、ああいうことはやめとけ」 「……うん」 「俺もだけど、エクリールの大将が一番困るんだぞ」 「知ってる」  もちろんあの猟兵たちは、エクリールの配下などではない。  そもそもトゥーリーズには猟兵がいないのだ。つまりあの三人は、全員揃ってよその領地の所属である。後見する貴族の子女が彼らに弑《しい》されるような事態が起これば、エクリールはその主人に抗議しなくては示しがつかない。  抗議を行うためには僕の身分を明らかにする必要があるが、それを知られて困るのはほかでもない彼だ。だから僕は、クロイツが思っている以上にことの重さをよく理解している。 「大将はよその領地とやり合うと必ず寝込むからな」  それについても、重々に。  クロイツは一体なにがおかしいのか、笑いながら僕に背を向けた。薬缶を拾い、折れたブラシの植毛部分を拾ってポケットにねじ込む――そうやって後片付けが終わるころ、毛氈を潜って入って来た獣の姿があった。 「こちらは無事か」  巨大な虎か豹に似た獣は、没食子《もつしよくし》のインクだけで執拗《しつよう》に塗り潰したような色の毛並みをしている。それから、同じ色の双眸を。 「おまえの目にそう見えるんなら、そうだろ」  クロイツの言葉に、獣はぐるぐると唸る。そのまましばらく濡れた地面を睨んだ末に、 「おまえ、薬缶を投げただろう。凹んでいないなら被害はなしだ」  と述べた。  巨躯に相応しい堂々とした声ではあったが、間違うことなく女の声でもある。しかも聞き覚えのある声だ。 「なら、被害甚大だわ。すまんね」  見れば、薬缶は取っ手の留め付けが外れている。凹むよりもむごい状況だ。  獣は唖然と口を開いていたが、言葉が吐き出されることはなかった。それより先に、駆け戻って来たダーヴィトに道を譲る羽目になる。 「滞在証は? 無事? 取られてない?」 「落ち着け馬鹿者。撤退の笛を鳴らさずに逃げただろう。盗めてはいまいよ」  ダーヴィトは肩で息をしながら、文字どおりに胸を撫で下ろした。  彼が息を整えるのを待って、僕は抱えていた割符を引き渡す。けっして重い荷物であったはずがないのに、手放してみると身体が軽くなったような気がした。 「ああよかった……ごめんね、悪いことをした。僕だけでも戻れたらよかったんだけど」 「だいじょうぶです、お気になさらず」  猟兵相手に、役人ひとりいたところで状況が好転したとは思えない。けれども獣の姿をしたケイは、そうは思っていないようだった。 「なにを言う。あいつらは姿を見られたら困る連中だぞ。頭数さえあれば逃げて……」  鼻面に皺を寄せた彼女はクロイツを見て、人間のように頭《かぶり》を振った。ついでに低い位置で揺れる尾が、表情よりもよほど雄弁に彼女の感情を示している。  男もまたひとつ嘆息して、受け取ったばかりの割符を机に置いた。 「で、外はどうなんだ。無事か?」  クロイツは彼らの態度に構うふうもなく、袖に包まれた腕を悠然と組んだ。黒い瞳がケイのほうしか見ないのはおそらく、彼女の目線が自分より低い位置にあるためだろう。 「無事だとも」  答えつつ、女は二本の足で立ち上がった。同時に巨躯が萎《しぼ》むように体積を減じる。青黒の毛皮は青と呼べる色に薄まり、元と同じ軍服の形を成した。 「第二矢などなかろうな」 「俺が知ってる範疇にはねぇよ。安心しな」  もはや見上げる背丈になってしまえば、クロイツは彼女の姿を見ようとしない。 「じゃ、俺はもう帰るぞ。大将に聞かれたら割符を守ったのは俺だってしっかり伝えろ」 「……よくもいけしゃあしゃあと!」  咆哮めいた声をあげるケイの肩を、ダーヴィトの手が叩いた。彼はそのまま背の高い女を椅子に座らせ、出入り口の毛氈を持ち上げてくれる。  振り返ることもなく出て行くクロイツの背を追って、僕もまた小屋を後にした。軽く頭を下げて見せると、ダーヴィトは苦笑しながら手を振ってくれた。

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