純白の子守唄

◇  そういえば、今日はこの唄を歌ってあげなかった。  そんな後悔を胸に抱きながら、私はもう何時間も同じ唄を歌い続っていた。  少女の頃から慣れ親しんだ子守唄。母より教えられ、私も子供たちに教えた子守唄だ。  けれど、この唄は私にとって、ただの子守唄ではない。初めてこの唄を褒めてくれたのは、母でもなく、我が子たちでもなく、今は亡きかの蜜蜂だったのだ。  そして、もう一人、この唄を気に入ってくれた者がいる。  名もなき蜜蜂の若者。  初めて彼女に蜜吸いを教えた時、その快楽に呆気なく溺れてまどろんでいるのを撫でながら、何の意図もなしに歌ったところ、思いがけずその心を捕えてしまったらしい。  以来、彼女との蜜吸いの後はたびたびこの唄を歌ってあげたものだった。それなのに、今日に限って私は歌いそびれてしまったのだ。  帰る場所を失ってしまった彼女のために、私は唄を歌い続けた。探してくると申し出た胡蝶の少女は今頃何処にいるのだろう。無理をしなくたっていい。私の恋した蜜蜂が生きている可能性なんてほぼ無いだろう。  日も落ちる頃になれば、蜜蜂の王国に起こった悲劇はあらゆる種族の者たちに噂されるようになっていた。突然の秩序の乱れに恐れを成す者もいれば、人生とはそういうものなのだと明日は我が身を疑う者もいた。どちらにせよ、彼らのほぼ全ては他人事に過ぎないのだと思っているだろう。  胡蜂は恐ろしい。だが、多くの蜜蜂が捕まったのならば、しばらくは飢えに苦しまないことだろう。悲しいことだけれど、犠牲となった蜜蜂たちに同情している者よりもずっと、その事実にほっとしている者の方が遥かに多かった。  月の森はどうしてしまったのだろう。  誰かが言っていた。この森には危険な魔女がいるのだと。他の魔女たちを捕えて自分のものにして、どんどんその力を大きくしていっている者がいるのだと。そして、次に狙われたのが蜜蜂の王国を取りまとめる女王陛下であったのではないだろうかと。  真偽のほどは分からないけれど、胡蜂の女王は今まで踏み込まなかった領域にまで足を突っ込んでしまったのだ。  蜜蜂の女王陛下は……私の恋した蜜蜂たちの母親は、もうすでに胡蜂の女王の元に連れて行かれてしまったらしい。これからは女王陛下ではなくただの魔女として、胡蜂の城に幽閉されてしまうのだろう。そして、囚われの身となった魔女の子供達は、すべて胡蜂のための食糧にされてしまうらしい。残忍に思ってしまうけれど、強い者が弱い者を喰うのがこの森の掟。  あの蜜蜂はどうなったのだろう。  彼女もまた残酷にも食べられてしまったのだろうか。  いや、そんなわけはない。確かな事が分からない限り、私はどうしても諦められなかった。彼女の生存への期待を捨てられないまま、無理をしなくてもいいと願いながらもあの胡蝶の少女が何かしらの手掛かりを掴んで帰って来ることを期待していたのだ。  だから、私は何度も歌い続けた。不思議と喉は枯れず、日が暮れても、途方に暮れることはなかった。  この歌声が好ましくない虫を呼ぶかもしれないという恐れはあまりなかった。ただ蜜蜂が、もしくは、私の願いを聞いて探しに行ってくれたあの胡蝶の少女が、無事に帰ってきてくれることだけを期待して、歌い続けた。  そして、もう何度目かの歌い終わりを迎えたかという頃になって、ようやく私の前に人影は現れた。  はっと我に返ってその人影を見つめたまま、私はしばし固まってしまった。 「お願い……」  人影を月の光がぼんやりと映し出す。  柔らかなその光に輪郭が浮かび上がり、表情と全身の様子が見えてきた。 「お願い、続きを歌って……」  ああ、なんということだろう。  そこにいたのは私が待っていた蜜蜂の娘だった。  急いで駆け寄り抱きとめてみれば、べっとりとしたものが私の衣服や肌を汚した。血だ。不快なんかではなかったけれど、その傷の酷さに息を飲むしかなかった。  無事でよかった、と言えるのだろうか。  その命が何処かへ逃げ出さぬよう、腕のなかに抱え込んでいるので精一杯なほどだった。 「唄が聞きたいの……」  朦朧とした意識の中で、蜜蜂は言った。ぐらりと力を失う彼女を抱きとめたまま、ゆっくりと私の膝の上に寝かせてやった。朝、こうしていた時には予想もしなかった状況だった。  仰向けに寝たまま、蜜蜂は私を見上げ、薄っすらと涙を浮かべていた。 「私……何も出来なかった……。母も兄弟姉妹も住まいも失って、一番仲の良かった友を見捨てて逃げてしまった……。死ぬのが怖い意気地なしだった……」 「意気地無しなんかじゃないわ。仕方無いことでしょう? だから、自分を責めないで、じっとしていて――」  必死な想いでそう言ってやると、蜜蜂は弱々しい笑みを見せてくれた。 「胡蝶の女の子がね……教えてくれたの……君が探しているって……そして、唄が聞こえて……」  そう言って、苦しそうに表情を歪める。  どうにかならないのだろうか。どうしたらいいのだろう。確かにここに彼女はいるのに、今にも遠くへ行ってしまそう。そんなのは、嫌だった。 「お願い……唄を聞かせて。君の歌声を――」 「分かった。歌うから……歌うから!」  だから、お願い――。  冷たいその手を両手で温めながら願う私に、蜜蜂は苦しみの中でもどうにか嬉しそうな表情を浮かべてみせた。 「ありがとう……うれしい」  今日はこの唄を歌ってあげなかった。  いつも蜜吸いの時は同じように膝枕をして歌ってあげていたのに。  小さく息を整えて、私は蜜蜂を見つめた。しっかりと支えていなければ今にも消え去ってしまいそうなその娘をしっかりと見守りながら、母より譲られしその子守唄で包みこんだ。  このまま時が止まってしまえばいいのに。  切なる願いを込めて、私は蜜蜂に音楽を与え続けた。周囲の様子なんてもはや何も見えない。蜜蜂もまたじっと私だけを見つめていた。  それは危険な森の中で行われる無謀な態度。  今の私たちの姿は、いや、私の姿は、どれだけ滑稽なものだろう。  それでも、私は止めなかった。彼女が欲しているのだから止められなかった。  どうか、この私の唄が、哀れな蜜蜂の癒しとなりますよう。そして、この私の蜜が、生死の境を歩む蜜蜂のせめてもの支えとなれますよう。  歌いながら懇願する私を、私の膝の上で苦しむ蜜蜂を、空に浮かぶ女神の化身はいつまでも静かに見下ろしていた。厳かな姿で、そして、何にも平等なその姿で,いつまでも、いつまでも輝いていた。

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