蜜蜂の王国

◇    自分は何のために生まれてきたのだろう。  家族のために必死に働き、短い人生をあっという間に終えていく姉。  一時の夢のためだけに生まれ、呆気なく果てて死ぬか、或いは、容赦なく家を追われて死んでしまう兄。  それが我ら蜜蜂の精霊の定め。  兄姉を見つめていると、大人になりたいだなんて、とても思えなかった。  女王というものが大変なのも分かっている。母の気苦労と責任を見ていれば、自分もああなりたいだなんて口が裂けても言えなかった。  では、蜜蜂は何のために生きているのだろう。ちっとも分からなかった。  分からなければ分かる必要なんてない。働き蜂にとって、人生なんて短いものだ。不本意にも大人になってしまった時に、すでに私は死を迎えるかのような気分で、姉たちより仕事を教わっていた。  姉妹の中には働かなくていい兄弟を羨むものもいたが、兄弟のなかには己の儚さを知り、ただただ虚しい人生に辟易している者もいた。  私はどうだろう。  女として生まれたものの、子を成すこともなく、家族のために働いて死ぬだけの存在として生まれたことを、私自身どう捉えているだろうか。  実は、こちらもよく分からない。虚しいという気もしたけれど、その時その時に課せられたことをそつなくこなせるのなら、それで満足な気もした。  どうせいつかは死んではしまう。ならば、せいぜいこの一生を、お国のためにでも使ってみよう。  淡々とした日々になりそうだけれど、それはそれで面白いこともあるかもしれないじゃないか。  開き直ってみれば、世界はそれなりに明るいものだった。  代々の女王が崇める月の女神はこの森のどこかでひっそりと暮らし、私たち儚い虫の全てを支える土壌を守っているそうだ。三十年ほどかけて成長し、月が満ちれば姫児を産み落として死んでしまう生き神様。  神様でさえそうなのだから、世の中はそういう冷たいものなのかも知れない。  ならばこの儚い夢のような世界で、せいぜい生まれてきた快感を一つでも多く味わっていこうではないか。  私の仕事は慣れれば悪くないものだった。  花を見つけてきてダンスしたり、花との秘め事で手に入れた蜜を仲間に渡したりするだけ。そのどれもが慣れてしまえば耽美なほどで、愉しいとさえ思えるものだった。  特に花との秘め事は、恥ずかしいほどに熱が入る。 「へえ、そんなにいいものなら、私も採集係になりたかったよ」  そう言ったのは、倉庫番を任されている同世代の仲間。私が集めてきた蜜をいつもいつもせがんでくる少女っ気の抜けない大人の蜂。蜜蜂という名前の通り、彼女が守るのは甘い蜜の倉庫。私以外にも多くの仲間と濃厚な口づけを交わし、目には見えぬ蜜というものを倉に貯蔵すべく加工する。習っていない私にはできない芸当だ。  私にできるのは花を見つけて誘い込み、蜜吸いと呼ばれる秘め事によって首尾よく蜜を奪い去ること。そうして私の体内に入った蜜の一部が消化せぬうちに住まいへ戻ることこそ、私の役目。  倉庫番との口づけもまた、蜜吸いに匹敵するほどの火照りをもたらすものだ。 「羨ましいものだよ。君たちは自由に飛び回って、たくさんの綺麗な花たちとあんなことやこんなことを――」 「でも危険も多いんだよ? 君も聞いたでしょう? あの子が食べられちゃったこと」  言葉を遮りつつそう言うと、倉庫番の少女のような顔がさっと青ざめていった。  嫌なことを思い出させてしまったかもしれない。 「そう……だったね」  反省するような口調で、倉庫番は肩を落とし、すぐさまその目を私に向けた。 「君も気をつけて……私のところにまた蜜を持ってきてよね。無事に帰ってこないと、許さないんだから」  ずっと住まいで待つこの仲間が危険でないわけではない。倉庫に貯められた蜜を狙う輩が、この住まいへと攻め込んでこないとも言えないからだ。  それでも、何かに囚われて死ぬ可能性は、私の方がずっと高い。外にはそれだけ蜜蜂を捕食する危険な奴らが棲んでいるものだし、実際、私も何度か危ない目に遭ってきた。  だからと言って、この倉庫番を前にあからさまな泣き言を吐き出すつもりもなかった。  もう蜜を含まぬ唇で彼女の頬にただキスをすると、私はその場を立ち去った。求めるのは新たな蜜。大人になりたくなかった私が、ただ闇雲に生きるために求める代物。生きる意味と直結する悦楽の元である。  それを秘めているのは美しい花の精霊たち。この手で咲かせて蜜を得るために、私は美しい森へと飛び立っていった。 ◇ 「それが貴女の溜め息の理由?」  純白の肌に真っ赤な朝日色の目。命奪う雪を思わせるような風貌でありながら、芯から暖めてくれるような温もりと共に、その美しい女性に向かって微笑みを浮かべた。  彼女の名前は知らない。けれど、私も彼女も知り合ってもう一ヶ月は経っている。  この一ヶ月で築き上げた私たちの関わりは、すでに果てしなく深いものになっていた。蜜蜂を含めたすべての精霊たちにとって、一日というものがとてつもなく重たいのだから仕方ないだろう。  彼女は花。|月花《げっか》と呼ばれる花の精霊である。たくさんの蜜を抱えて蜜食虫の訪れをいつも待っている。嫌々大人になった私が生まれて初めて蜜吸いをした相手だ。不慣れな私を優しく導き、この神聖な儀式の素晴らしさを直接的に教えてくれた人生の先輩でもある。  とても有難い事に、彼女は私を気に入り、いつだって訪れを歓迎してくれていた。最初は緊張していた私も、いまではすっかり彼女の虜だった。彼女の蜜はそれほど甘美なもので、温もりは花の中でもひときわ心地いい。抱いても、抱かれても、生きている喜びが知れた。それに時々、素晴らしい歌声を聞かせてくれるのも大好きな理由の一つだ。月花たちに伝わる精霊の歌。美しい声で奏でられるその歌の世界に浸ることは、私にとってこの上ない贅沢でもあった。  しかし、歌ってくれなくてもそれでいい。彼女に甘える事自体が癒しに違いない。柔らかな膝を枕に寝そべりながら、私はため息混じりに返答した。 「君は自分が生まれてきた理由、考えたことないの?」  案の定、彼女は困惑した表情を見せた。  生まれてきた理由なんて考えるわけがないだろう。これまで接してきた花達は皆、私の事を散々笑ったものだった。または、女王という確かな主に守られた居場所を持っている者特有の余裕から来るものなのだとご丁寧に分析する者までいた。  言われてみれば確かに、花たちにとってみれば女王という存在は恐ろしく頼れるものだろう。  月の森に暮らす花たちの暮らしは甘美なだけでは済まされない。この|女性《ひと》だって、何度か危ない目にあったことがあるのだという。彼女たちの蜜を求める者の中には乱暴な者もいるのだ。彼らは花がいくら泣き叫んだとしても、蜜吸いを止めず、ついには枯らしてしまう。欲望を満たすために相手が傷つき、死んでしまったとしても構わない精霊たちだってこの世には存在するのだ。  私が当てにしている花の中には、もう枯れてしまったと噂される者もいる。大人になってそう長く経つわけではないのに、その数は一人ではない。  犯人となる種族は大抵決まっている。  ――胡蝶。  その種族名を思い浮かべ、何度か見かけたその姿を思い浮かべた。  善人というわけでも、悪人というわけでもない。彼らは私たち蜜蜂と同じように、この森に住んでいる虫の精霊だ。それ以上でも、それ以下でもない。  ただし、胡蝶には我々と違う特徴がある。  それは、一目見ただけであらゆる者を魅了してしまう恵まれた容姿だ。  私も胡蝶の血を引く者を何度か見かけたことがある。羽化する前の青虫と呼ばれる彼らはさほど目立つわけではない。幼子の愛らしさは持ち合わせていても、それ以上踏み込んだ美しさを持ってはいない。だが、蛹として眠り、羽化した後の美しさは息を飲むほどのものである。  初めて大人の胡蝶をこの目で見た時、私もまたその美しさに息を飲んだものだった。  彼らには美しい花たちを魅了する力すら持っているらしい。そうであっても不思議ではなかった。だって、彼らはライバルであるはずの私さえも一瞬で魅了してしまったのだから。  働き蜂の姉たちに聞けば、私と同じように胡蝶に魅惑されたことがある者は大勢いた。女としてその美しさに憧れたり、嫉妬したりする者が多かったが、中には生まれ変わったら胡蝶ではなく花の精霊になって彼らに誘惑されたいと願う者もいた。  そう、胡蝶はあらゆる者を惹きつける。  誰もが胡蝶の魅惑に敵わず、誘いを断れなくなってしまう。そんな己の魔性に早くから気付く彼らは、悪魔のように成り果ててしまう者が多いのだ。  その悪魔と成り果てた胡蝶の一人によって、今、私の頭を撫でてくれているこの女性は囚われたことがあるらしい。想像しただけでぞっとする話だ。 「私が生まれたわけは、誰かと蜜吸いをして種子を受け取り、子を産むためだけよ」  淡々とした口調で花の女性は言った。  私には経験できそうにない御役目の話。  種族の繁栄という点では、彼女の言葉は何一つ間違ってはいないのだろう。私が聞きたかったのはそういう事ではなかったのだが、仕方ないだろう。  彼女はきっと疑問になんて思わないのだから。 「子を産んで育てたことはあるの。でも、きっとまた産む事になるでしょうね。その時は貴女の運んだ種の子だといいわね」  直接的な言葉に思わず身体が火照った。  こんな事で恥ずかしがるなんて、まだまだ私は大人になり切れていないのかもしれない。そもそも、大人になりきれる日が来るのかも分からないのだけれど。  まどろんだ空気の中、ふいに彼女の手が私の唇に触れた。  途端に広がったのは甘い味。先程存分に貰ったせいか、あまり濃厚ではないのだけれど、それでも安心感のある素晴らしい味だった。その味に酔いしれる私を抱き寄せると、彼女はそっと指を離し、唇を重ねてきた。  蜜吸いは虫が一方的に花の蜜を吸うだけではない。花が虫の心を捕える為に、自らの蜜を流しこむときだってある。  私より長く生きているこの花の女性は、その技に長けていた。  蜜の味で頭の中が真っ白になっていく前に、彼女は唇を離した。 「どう? 少しは気分が楽になった?」  訊ねられて、私は口籠る。  蜜を与えられれば、難しい事はあまり考えられなくなる。この甘さに酔いしれ、快感の上に漂っていることしか出来なくなってしまう。  ――けれど、これでいいのかもしれない。  私は何故生まれたのか。  そんな事をどれだけ考え、どんなに高尚な答えを得られたとしても、私の立場は変わらないし、毎日の仕事も変わらないのだから。  分からなくてもいい。そう思うと少しだけ気が軽くなった気もする。 「うん」  そっと笑みを返し、私はふと空を見上げた。  動けぬ木々の生い茂る森の上空。照りつける太陽の傾きを見つめた。そろそろ、帰らねばならない時間だった。唄をまだ聞いていないのは残念だけれど、また明日来た時に頼めばいい。  蜜による気だるさに抗いつつ起きあがると、花の女性の手が止まった。 「帰るの?」  短く問われ、私は頷く。  すると、彼女は少しだけ寂しげな表情を見せた。 「そう、気をつけてね」  優しい言葉が温かかった。  私の心配をしてくれる人なんて、倉庫番かこの女性くらいだろう。二人もいる時点で恵まれているのかもしれないと思うと、尚更、嬉しくなる。 「ありがとう、君も、乱暴な胡蝶には気をつけてね」  そう言い残して去ろうとしたその時、ふと、女性が私を呼びとめた。 「待って――」  振り返ってみれば、彼女は眼を泳がせ、言葉を探している。  ――何だろう。  首を傾げる私をしばらく見つめた後、彼女は静かに首を横に振った。 「御免なさい、何でもないわ」  諦めたのだろう。そうと分かる表情だった。 「この辺りには蜘蛛の巣がいくつかあるらしいから気をつけてね」  結局、そんな忠告だけに留まってしまった。

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