銀ヤモリと花酒

 ***** 「はぁ……。どうしたらいいんだろうな、祝いの宴。新しい山主さまの好物が判るといいのに」  卓の上に置いた報せの文と、小籠に入れて持ち帰った桜の一房を見つめながら、香乃がため息をついたとき、  チョロリと目の前に小さなヤモリが現れた。 「あ、銀ちゃん !」  それは去年の夏のこと。  嵐があった翌日に、転んだ植木鉢と石垣の隙間に挟まり身動きのとれなかったところを香乃が助けたヤモリで。  その日から気まぐれに顔を見せるようになったので、香乃は「銀」と名付け話しかけるようになった。  若い娘がヤモリに話しかけているところを見れば、きっと変わり者だと思われるかもしれないが。  ヤモリは家を守ってくれる「家守神」とも呼び、縁起のよい生き物なのだと母が言っていたので、香乃は平気だった。  銀はその名の通り全身の細かな鱗が銀色で、時折キラキラと虹のような光沢を放ち、蛇のような鋭い目も琥珀色に煌めくときがあり、とても美しいヤモリだった。  秋が過ぎてからは冬眠に入ったのか、ぱったりと顔を出さなくなっていた。  今日はかなり久しぶりに元気そうな姿を目にして、香乃はとても嬉しくなった。 「久しぶりだね、銀ちゃん。冬眠から目が覚めたの? でもまだ春は来てないよ、寒桜は咲いたけど」  銀はしばらく香乃の顔を見つめていたが、小籠の中にスルリと入ると桜の花びらを一枚パクリと食べた。 「あっ、こら !」  そして桜の一房を咥えると、銀は素早く卓から離れ、土間の隅にある戸棚の前へと移動した。 「ダメよ銀ちゃん。その桜は報せ桜なの。花迎えだけが摘んでいいものなんだよ。部屋に飾るから返して」  銀は香乃の言葉などお構いなしに花房を咥えたまま、短いが可愛らしい尻尾の先で、戸棚の扉をまるで叩くようにツンツンと触れた。 「も~、銀ちゃんったら !」  銀の仕草に香乃は呆れる。  これは銀の催促の動作だった。  自分の好物があの戸棚の中にあると知っているので、開けてほしいというのだ。  戸棚の中には亡き母から教わった果実酒や花酒や薬草酒が置いてあり、銀はそれを舐めたがっているのだ。  きっかけは銀と出逢って間もない頃、料理に使う花酒をうっかり溢してしまったのを銀が舐めたことが始まりで。  それ以来、舐めたいときは必ず戸棚の前で尻尾を振り、銀は香乃に合図を送る。  ヤモリの好物は昆虫のはずなのに。  酒好きのヤモリなんて聞いたことがない。  けれど酒を舐めた後、ほんのりと淡紅に色付く銀の姿もまた美しく、鋭い目がトロンとやわらかな雰囲気に変わるところも可愛くて。 「少しだけだよ」  ついつい、香乃は銀に酒をあげてしまうのだった。 「どれがいい?やっぱり花酵母から作ったお酒かな。銀ちゃん花酒が一番好きだものね」  香乃が戸棚を開けると、銀はいくつかある中から藤花酒の容器を選んだ。 「───はい、どうぞ」  小さな木皿にほんの少し注いで、銀の前に差し出す。  銀は咥えていた桜の房をようやく離し、皿に近寄りペロペロと酒を舐めた。 「あーあ。銀ちゃんの好物を知っていても仕方ないのにね。  あのね、私、花迎えに選ばれちゃってこれから大変なの。新しい山主さまのために用意する宴のお料理とか、何がいいんだろう」  香乃が呟くと銀は顔を上げ、先ほど離した桜の一房から花びらを一枚咥えると皿の酒に浮かべ、それからじっと香乃を見つめた。  銀の不可思議な行動に首を傾げた香乃だったが。 「もしかして、桜のお酒が飲みたいの?」  香乃の言葉に、銀は浮かべた花びらだけを残し、きれいに酒を舐め終えると、皿を頭でつぅと香乃の前に差し出した。  残った桜の花びらを見つめ、香乃はふと思い立ち呟いた。 「……そういえば、桜の花酵母はまだ作ったことなかったけど。でも銀ちゃんの希望ばかり優先するわけにはいかないのよ」  香乃は皿を片付けながら笑った。 「報せ桜の文みたいに、朔耶さまから宴に食べたい献立とか書かれた文でもあればいいんだけどね………。……あれ、銀ちゃん……?」  振り向いたとき、銀の姿はもうどこにもなかった。  *****  翌日、香乃は朝から報せ桜が咲いた御神木に向かった。  御神木のそばには庵が建っている。  庵は山から降りた山主が秋の終わりまで過ごす屋敷となる。  香乃の家からそう遠くはないが、花迎えの仕事として庵の中も整えておかなければならず、しばらくは毎日通って綺麗にしなければならない。  冬の間、閉めたままだった戸や襖を開けて部屋の中に光と風を通さなければ。  そして掃き掃除に拭き掃除にと、やることは山ほどある。  でも今日は午後から多喜の家に行く約束があるので、長居はできない。  それに空は薄曇りで、あまりお天気が良くない。  布団干しもやめたほうがよさそうだなぁなどと、そんなことをあれこれ考えながら歩くと、やがて目の前に御神木、その向こうに庵が見えてきた。  昨日より桜の蕾が増えたように思うのは気のせいだろうか。  ───そして、 「あれ?」  木の枝に昨日の報せ文と同じように白い紙が結んであった。  ───なんだろう。  枝から外し紙をひろげると………そこには、 『 豪勢な宴は無用。  酒と肴、煮豆や山菜漬けなどがあれば結構。好きなものは花酒と甘い胡桃餅。───朔耶』  (こ、これっ、朔耶さまからの文だ!)  香乃はとても驚き、文を持ったまましばらく呆然としていた。  わざわざ文をくださるなんて。  宴の食事について朔耶さまの希望がわかるといいなとは思っていたけれど。 (まさか本当に文で教えてくださるなんて。でも……私が悩んでいたこと、なぜわかったのだろう)  いくら考えても香乃にはさっぱりわからなかったが、優しい気遣いが感じられる文に香乃はとても嬉しくなった。  宴に豪勢な食事は無用だという内容にも、香乃は安堵した。  煮豆も山菜漬けも充分に用意できる。 (朔耶さまって甘い胡桃餅が好きなのね)  それから花酒も。 「桜のお酒かぁ」  花酵母は酒作り以外にも粉を練って焼く菓子などに混ぜると香りが楽しめるものだった。 「御神木の桜がせっかく手に入るのだから作ってみようかな」  他にも桜の塩漬けや桜餅、桜茶も祝いの宴に合う気がする。  朔耶からの文と御神木から風に乗って漂う仄かな桜の香りに、香乃の心は励まされていった。

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