戴冠、或いは暁を待つ | 一章:女王と新しい仕事
かなた

01

 領主邸の囲いの中には、本来なら三棟あるはずの建物がふたつしかない。領主が住んでいたはずの邸宅がないからだ。  それは燃えてしまったのだ、と教えてくれたのはハイロである。けれども残るふたつの建物には、焼け跡どころか燻《いぶ》された様子もなく、ましてや消火に伴う水害の気配もない。まるで領主邸だけが突如燃え出し、炎とともに消えたよう――石造りの土台を見るたび、いつもそんなことを考える。そしてその考えはおそらく、まったくの誤りではない。  毎回のようにそこまで思索を巡らせてから、僕は手にした本をアマリエへ渡す。帰りしなに彼女と合流したときの、お馴染みのやりとり。  クロイツと呼ばれた魔術師は、特になにを言うでもなくそれを見ていた。 「――仲いいの、あいつと」  よく通る声が空を震わせたのは、アマリエが宿舎のほうへ去って行くのを見届けてから。 「ええ、まあ。悪いほうではないと思います」  応じる僕の声もまた、けっして高いほうではなかった。  女というよりは男に近く、変声期の渡河《とか》も感じさせない少年の声。僕のきょうだいはそのような声で、僕はそれを真似しているのだから、当然の話である。 「別に改まらなくたっていいぜ。どうせ同じくらいの年だろ」  魔術師が黒いまなこを細めるのを見取って、僕は首をかしげた。 「僕は十七で、あなたよりも年上だと思うけれど」 「俺は十八。大体同じってことだ」  ついでおや、と瞠目する。もう少し幼いように見えたが、彼はちょうど成人だ。  けれどもそれは敬意を払う理由にはなり得そうにない。たった一年の年齢差でわあわあと騒げるほど、僕らは互いに幼くないのだから。 「なら、お言葉に甘えて」  僕がそう告げると、クロイツはアマリエと逆方向へ歩き出した。向かう先にあるのはこの敷地にあるもうひとつの建屋――すでに働き手の帰った役所である。僕の後見人は軍人であるが、彼は宿舎ではなく、役所の一室で起居しているのだった。  ゆえに僕は特に気にすることもなく、クロイツの足取りを追うことにする。仮にも僕はエクリールの許で仕事をしているのであるから、仕事の結果は都度、報告に行くのが鉄則なのだ。おそらくはクロイツも似たようなものだろう。  もっとも彼の場合はなにを思ったか、途中から地面を歩くことをしなくなったが。 「ところで、俺もおまえのことルカ様って呼ぶほうがいいのかね」  領主邸の土台の上から降る声に、僕は苦笑を返す。前を向いたまま首を横に振り、それからこちらを見下ろす白面を見上げた。 「ルカでいいよ」  よくよく見れば、外套の白い布帛《ふはく》の端から零れた髪は黒色をしている。同時にこちらを見る瞳もまた、水底めいた黒だった。どちらも影になってそう見えるというのではなく、正真正銘の夜闇の色。あるいは僕らが崇《あが》め奉《たてまつ》る、偉大な獣がまとうと言われる色だ。  魔術師たちが使う魔術とは、かの獣の力を現《うつ》し世《よ》へ示すものであるがゆえ、黒髪黒瞳《こくはつこくとう》の者は大成すると聞く。その影響からか、この国において黒髪黒瞳の人間は滅多に生まれない。  つまり、エクリールはずいぶん貴重な魔術師を見つけたというわけだ。  そんなことを考えながら、僕は役所の裏口の前に立つに至った。クロイツは外套の裾を揺らして、音もなく土台の上から降りて来る。白魚《しらうお》にも似た指先が開いた扉の向こうには、無人であるがゆえの静寂だけがあった。  もしこの静寂に色があるのなら、それはきっと暖かな飴色だ。僕が王宮で慣れ親しんだ類の、張り詰めたような寒色の静けさではない。そのように思える。  クロイツはその静寂の中を、慣れた足取りで歩いて行く。彼の背中を追いながら、僕は少しだけ懐かしいひとのことを考えた。眼前の彼とはまた別の、黒髪黒瞳の魔術師のことを。  ――僕は、そのひとを先生と呼んでいた。もうちょっと改まった尊称で呼ぶこともあったけれど、僕らはその呼び名が気に入っていたもので。  お元気かしらと思案しながら廊下を抜け、角を曲がり、階段を登る。  それからふたたび廊下。突き当りを曲がったその先こそ、僕らが揃って目指す場所――邸宅とともにあるじを亡くしたトゥーリーズの、新たなあるじの住まいである。  彼はアマリエとクロイツの主人であり、同時に先生の友人だった。その縁があって、今の僕は彼の庇護下《ひごか》で暮らすことが赦《ゆる》されている。 「大将」  小さな声で呼ばわって、クロイツは拳で木戸を叩いた。もっともエクリールは大将ではないので、これも愛称のようなものだろう。  そのようなことを思いながら見守る後ろ姿は、返答がないことに舌打ちを漏らした。 「大将、いるか」

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