第四話:剣術つかい・秋山弥兵衛

 温かい寝床の中でその日ケンタが目を覚ました時、まだ一日は夜明けを迎えていなかった。  深夜ではなく早朝であることに疑いなどなかったが、あたりはいまだ深い闇に包まれたままだ。  それには、高い山々に囲まれた飛騨という土地柄が大いに左右している。  おそらく、ここがなだらかな地形の続く平野部であったなら、うっすらとした夜明けの朱を大地と空の境界線に見出すことができただろう。  たぶん午前四時頃だな、とケンタは体感時間で大雑把な当たりを付けた。  それは、普段から彼が目を覚ますよう習慣づけていた時間帯だった。  障子戸一枚で外界と隔てられた畳敷きの室内に、やや肌寒く感じる空気がそろりと忍び込んできて肌を刺す。  軽く身震いして、ケンタはのそりと上体を起こした。  その巨体にはまったく適合していない寝間着がはだけ、筋肉の隆起した分厚い胸板があらわとなった。  彼が眠りに就いていたのは、六畳程度の小さな和室だった。  装飾はおろか、らんまや家具などさえ見られない。  質素で落ち着いた雰囲気を持つ手入れの行き届いた部屋であった。  障子戸を除く三方は、菖蒲が描かれた古い襖戸によって隣室と分けられていた。  しっかりした壁などと異なり、本当に空間だけを仕切ったといった感じでしかない。  私的空間とするには、あまりにも貧弱な間仕切りであった。  もっとも、この部屋と接するいずれの部屋からも人の気配は感じられない。  葵をはじめとする本来の住人たちは、ケンタとはひと部屋以上を挟んだところでそれぞれ就寝したのであろう。  意図して空けられた隣室は、いわば邸内における「空堀」としての機能を期待されているに違いない。  それは、いわゆる「武家の者」がいざという時に備えて持った、危機管理に対する姿勢の端的な表れなのだと思われた。要するに、来客《よそもの》に礼を尽くしもてなすことはしても、簡単に気を許したりまではしないというわけだ。  身を起こしたケンタは乱れた寝間着もそのままに、つい本能的に照明のスイッチを探し求めてしまった。  そんなものがあるわけないと頭では理解していたにもかかわらず、視線は無意識の内に天井を向く。  だがそれもほんの一瞬だけの出来事で、すぐさま彼は自分の置かれた環境というものを再認識し、小さく嘆息しながらすとんと両肩を落としてみせた。  やっぱり、夢じゃなかったんだな。  思わず頬をつねりたくなる衝動に苛まれながら、ケンタはそうひとりごちた。  諦めの悪いことはなはだしい自分自身がなんだかおかしくて、その口元を綻ばせてしまう。  いや、本当におかしいのは「諦めの悪い」自分ではないな。  ケンタはそのことをはっきりと自覚していた。  時間跳躍。  異世界転生。  彼が真におかしいと思ってしまったのは、そんな、まっとうな神経であればうろたえるどころか自我崩壊にすら繋がりかねない状況に直面しながら、なお「ぐっすりと熟睡してしまえる」自分の図太さに対して、である。  とはいえ、こればかりは持って生まれた性分なのだから、いまさら変えようとしてもいかんともしがたい部分であろう。  むしろ、いまはそんなおのれの一面が非常にありがたく感じられる。  少なくともそのおかげで、自分は目の前にある現実から逃げ出さずにいられるからだ。  どれほどの困難であろうとも、それに立ち向かう意志さえ確立できるのであれば解決に至る道筋は半ばを突破しているも同然だ、と彼はこれまでの経験からわかっていた。  千里の道も一歩から、どころではない。  その一歩を踏み出す決断ができるかどうか。  それこそが最も重要な「一撃」なのだと、ケンタは心の底から信じていた。  ◆◆◆  古橋ケンタが秋山葵をその肩に乗せ、町外れにある「直心影流・秋山弥兵衛道場」へと辿り着いたのは、まもなく夕方に差しかかろうという|夕七ツ刻《午後四時頃》のことであった。  門前の掃除に勤しむ秋山家の下男・茂助は、不意に現れた雲突くような大男の影を見て、思わずその肝を潰された。  ただでさえ身の丈百五十程度しかない体躯に加え歳のほうもまもなく六十になろうかという彼の眼には、日を遮るように目の前に立つ百九十近いケンタの威容がまさしく舞い降りた大天狗のように映ったことに疑いはない。  ひぇ、というくぐもった悲鳴がその喉の奥から漏れ出したのも、まずは仕方のない反応であったろう。  その狼狽は、彼の頭上から「茂助、ただいま帰りました」という葵の声が降ってくるまで継続した。 「お嬢さま!」  ケンタの肩上に見慣れた主家の娘を見出した茂助の瞳に、それまでとは別種の驚きが出現した。  そのまま聞けば余りにも間抜けな問いかけを、つい口にしてしまう。 「なんでまた、そんなところに?」 「道の途中で草履の緒が切れてしまったので、この古橋さまが乗せてくださったのです」  ケンタの手によってひょいと地面に降ろされた葵が、茂助の問いにまっすぐ答えた。 「お父さまはおられますか?」  葵は尋ねた。茂助はこれに「へい」と応え、「ただいま道場のほうにて門人の方々に稽古を付けておられます」と続けて告げた。  それを受けて葵は言った。 「では、それがひと段落なされたら、お父さまに母屋へ戻られるようお伝えください」  とても下男に向けての口調とは思われぬ丁寧な言葉遣いであった。  茂助は、軽く頭を垂れてこれを承諾した。  と同時に、彼女の後ろに所在なげに立ちつくす大男に向かって視線を投げる。 「ところでお嬢さま。そこの御仁はいったいどちらの御方で?」  茂助は尋ねた。 「私の恩人です」  単刀直入に葵は答える。 「古橋ケンタさまと申す武芸者の方で、道中、無頼の者たちに襲われた私を助けてくださったのです」 「それはそれは」  葵の言葉を疑いもせず素直に受け入れ、この老齢の下男はケンタに対してそれはもう深々と腰を折って礼意を示した。 「お嬢さまのご恩人ともなれば、わしらにとっても大切な御方。早速、先生にお繋ぎいたしますので、お座敷にてお待ちくだされ」  言われるがまま茂助に連れられ座敷に上がったケンタの前にこの家の主人である秋山弥兵衛が姿を見せるまでには、さほどの時間を要しなかった。 「お初にお目にかかる」  そう切り出してから名乗った弥兵衛は、白髪の多い頭髪を持つ痩身の男であった。  身の丈は百六十に届くか届かないか。  きりりと引き締まった表情に整えられた口髭を生やした、なかなかの男前だった。  ぱっと見た感じ、まだ少女と言っていい葵の父親としては随分と年を取っているようにうかがえる。  どう見ても五十を下ることはなさそうだ。  しかし、その眼光は精気に満ち、奥に猛禽の鋭さを潜めているのが明らかだった。  なるほど、さすがは道場主。  一国一城の主とはこういったものなのか。  その眼差しに射すくめられたような気がして、対座するケンタは思わずその身を固くした。  慣れない正座姿勢をとっていることも、それに一躍かっていたのかもしれない。  そんなケンタの緊張を読み取ったものか、弥兵衛は不意に表情を崩し、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。 「古橋ケンタ殿、と申されたかな」  折り目正しく頭を下げつつ、弥兵衛は言った。 「此度は、我が娘の危機を救っていただいたことに、心より感謝いたす」 「いえ、そんな」  恐縮したケンタが、両手を広げてこれに応じた。 「俺は、自分のできる当然のことをしたまでで──」 「謙虚なお人ですな。古橋殿は」  弥兵衛が苦笑する。 「だが、刀を持った三人の無頼者に立ち向かうなど、並の胆力で叶うものでもありません。当道場の門人にして、果たして幾人がそれを成し得ることでしょうか。葵がそのような場であなたのような方に出会えたことは、まさしく神仏の加護と言えましょうな」  弥兵衛は、その場でケンタに秋山家への長逗留を願い出た。  葵の身を救ってもらったことに対する感謝の意であるとのことだった。  おそらくは、弥兵衛がケンタと対面する前に葵からある程度の口添えがあったのだろう。  ありがたい話であった。  おかげで、きちんとした宿と、たぶんそれなりの食事にありつけそうだったからだ。  お礼として若干の金銭を与えられ、ぽいとこの見知らぬ異世界の只中に放り出されることを思えば、それはまさしく天国にすら近い状況だと思えた。  弥兵衛との対面を終えたあと、おみつという名の若い下女から湯浴みを勧められたケンタは、熱い湯に身体を浸してしばしの弛緩を楽しんだ。  秋山家にあった風呂は離れに設けられた内風呂で、大きな木製の桶に母屋のかまどで湧かした湯を運び入れるという形をとっていた。  二十一世紀のそれとは比べものにならないほど貧相な浴場であったが、それでも内風呂を持つという事実はこの秋山家がそれなりに裕福な家であることを何よりも雄弁に物語っていた。  用意された着替えは、落ち着いた紺色の着物と黒っぽい色合いの袴であった。  下着の類は、言うまでもなく純白の褌《ふんどし》だ。  下男の茂助が言うところによると、弥兵衛がその師匠筋から譲り受けたのだが大きすぎて持て余し、長いこと奥に仕舞い込んでいた代物らしい。  それでもケンタの巨体にとっていささか丈の短い着物だったが、不思議と窮屈さは感じなかった。  むしろ開放的ですらある。  和服とはそういったものなんだな、と彼は素直に感じ入った。  そういえば、温泉旅館などで着たことのある浴衣などもこれと似た着心地だったと思い出す。  開放的と言えば、生まれて初めて身に付ける「褌」という下着もそうだ。  一見トランクスなどよりもずっと締め付けの強い印象を与える褌だが、いざ着用してみると、そこに妙な爽やかさを覚えてしまう不思議な衣類であった。  入浴が済んでから、それに続いたのは夕餉の時間。  そして、それが終われば、あっというまに就寝の時間となった。  ケンタにとり、過去経験したことのないような慌ただしい一日は、至極あっさりとした終焉を迎えた。  冷静になって考えると、それはまだまだ宵の口と言える時間帯のはずだった。  そんな時分に床に就くなど、いったいどれだけぶりのことだろう、とケンタは思う。  二十一世紀の日本なら、小学生ですら元気に起きているような時間帯だ。  それなりに肉体を酷使した実感はあるが、不思議と疲労感は覚えなかった。  代わりに緊張感と酷似した何かが、じっとりと身体中を覆いつくしていた。  美沢さんたちはどうなったんだろう?  眠りに落ちる前、そんな疑問を漫然と思い浮かべたことをケンタはぼんやりとおぼえていた。  ◆◆◆  むん、と大きく伸びをうち、ケンタは寝床から立ちあがった。  音を立てないよう気を使いながら、そっと障子戸を引き開ける。  澄みきった朝の空気が心地良い。  大都会の中では決して味わうことのできない土と草の香りが、そこはかとなくその中には含まれていた。  ゆっくりと胸を開け、深々とした深呼吸を二度、三度。肺胞を通して、血液中に新鮮な酸素を取り入れる。  全身に「なまり」が感じられた。  そういえば、昨日一日まともにトレーニングをしていない。  身体中の筋肉が、負荷を欲しがってウズウズしているのがはっきりとわかった。  これはもう、昨日の分と合わせたっぷりと汗を流さなくてはならない。  本来ならもっとほかにしなくてはならないことを考えるべきなのだろうが、「古橋ケンタ」という若者はそんな常識の範疇に属しない人物だった。  ここが本当はどこでそして我が身がどうなっているのかなど、さっぱりわからない。  それどころか、《《これ》》が夢なのか現実なのかすらまったくもって判別不能だ。  だったら、やることと言えばいままでやってきたこと以外、自分にはこれっぽっちも想像できない。  まあとりあえず、いまはそれでいいじゃないか。  うん、そうしよう。  なんともわかりやすくかつ極めつけに単純な論法でおのれ自身に鞭を入れると、ケンタは素足のまま縁側を越えてのしのしと庭先にまで進み出た。  冷たい土の感触を肩幅に広げた足裏で直に味わいながら、ゆっくりと膝を曲げて腰を沈める。  椅子に座る時の要領だ。  そして、その膝が完全に曲がりきらない位置で一度止め、今度は同じ速度でもって伸ばしていく。  息を吸いながら曲げ、息を吐きながら伸ばす。  両手は頭の後ろで組み、決して反動は付けない。  テンポとしては、一、二で下ろし三、四で上げる。  そんな程度の速度である。  スクワット。  下半身向けのウエイトトレーニングとしては、まず王道と言っても過言ではない種目だ。  もちろん、それはケンタのようなプロレスラーとて例外ではない。  いまケンタが行っているのは、「ハーフ・スクワット」と呼ばれる手法であった。  膝を完全には曲げきらずおよそ九十度に留めるため、「フル」ではなく「ハーフ」の冠が付けられている。  本来なら、より下半身に負荷のかかる「フルボトム・スクワット」や「ヒンズー・スクワット」を選ぶほうが鍛錬の内容としては過酷なのだろう。  しかし、ケンタはそれらを「膝への負担が大きくなりすぎるから」という理由で忌避する傾向が強かった。  次第に明度を増していく空のもと、ケンタの巨体が機械のように規則正しく上下する。  回数は、とりあえず千回を目標としていた。  ただ漫然と回数をこなすだけのウエイトトレーニングはむしろ非効率的である、という専門家からの意見も多いのだが、彼はあえてその言葉を無視してほぼ毎日のようにおのれの肉体を虐めつくしていた。  そうすることこそが「アスリート」ではない「プロレスラー」としての日課なのだと、固く信じていたからだった。  身体が火照り、大量に汗を吸って重くなった寝間着を縁側の上に脱ぎ捨てた頃、天は透きとおる青が見て取れるくらいの明るさになっていた。  酷使した下半身をしばし休ませるため、間髪入れず、今度は上半身のトレーニングを開始する。  |腕立て伏せ《プッシュアップ》と腹筋運動《シットアップ》、|背筋運動《バックエクステンション》をそれぞれ数百回ずつこなし、ひととおり全身の筋肉に負荷をかけたあとで、ケンタはじっくりと時間をかけたストレッチに移った。  滝のような汗が浅黒い肌を流れ落ち、朝日に煌めきながらむき出しの地面に次々と吸い込まれていく。 「ふう。いい汗かいたな」  たっぷりとおのれの筋肉に熱を入れたケンタが、立ち上がりながらひと息吐いた。  気持ちよさそうに天を仰ぎ、満足げに呟く。 「準備運動はこれにて終了、と。次は──」  驚くべきことに、この過剰なまでのウエイトトレーニングはケンタにとっていわゆるオードブルに過ぎないのだった。  これが終わってから、いよいよ本当の意味で彼なりのメインディッシュが始まるのである。  それは、常人ごときでは到底およびもつかない感性だった。  いや、おそらくは|彼の同業者《プロレスラー》であっても同様であろう。  まさしく「趣味は練習」を地でいっている人物だった。  これに似た者は、そうそう世におるものでもあるまい。  さらなる鍛錬を自らに求めたケンタが見出したものは、無造作に置いてあった庭石であった。  それは、大人の背丈ほどある松の木の根元近くにぽつんと配されてあって、およそひと抱えほどの大きさを持っていた。  重量は四、五十キロを下るまい。  本来使用すべきバーベルやダンベルのないいま、ケンタにとっては都合の良い大きさと重さでないかと思われた。  まっすぐ庭石に歩み寄ったケンタは、両手でそれを抱え上げた。  短く気合いを入れて頭上にかざす。  簡単に四、五十キロというが、それはいわば成人女性の体重に匹敵する。  両腕の力だけで頭の上に持ち上げるなど、やすやすとできる所行ではない。  彼はそのままの格好で、おもむろにスクワットを始めた。  一回、十回、百回──もといた世界で使っていたバーベルと比較すると若干軽く感じられたが、やはり棒を両肩に担ぐのとウエイトそのものを両手で持ち上げたままにするのとでは後者のほうがしんどく思える。  好ましい限りだ。  ふたたび筋肉が熱を帯び始め、玉の汗がしずくとなって足下めがけて落ちていく。  脳内麻薬が分泌されたものか、苦痛はまったく感じない。  むしろ、出所不明の幸福感がケンタの心中をじわりじわりと浸食し始めた。  ああ、幸せだなあ。  本気でそう思う。  そんなケンタを至福の時から引きずり出したのは、不意にあげられた短い悲鳴だった。 「こ、古橋さま! いったい何をなさっておられるのです?」  間髪入れずに問い質され、ケンタは、はてとばかりに動きを止めた。  声のした方向に向け視線を投げる。  そこにいたのは、葵と下女のおみつ、そのふたりだった。  葵は花びらを描いた薄桃色の振り袖に紺の帯という他者の目を意識した出で立ちだったが、おみつはねずみ色の地味な着物をまとい、その両手には膳を抱えている。  どうやら朝餉の時間になったものらしい。  「いや、その」と回答に窮しながら、彼は葵からの問いかけに「鍛錬です」と短く答えた。  持ち上げたままの庭石を、そそくさともとの場所へと戻しにかかる。 「すいません。勝手に庭のものを動かしちゃって」 「そんなことより、早くお召しものをまとってください!」  はは、と照れ笑いを浮かべるケンタを、葵がぴしゃりとたしなめた。  顔中を真っ赤に染めている。  その原因はあまりにも明確だった。  しかし、ケンタがそれに気付くのにはひと呼吸以上の時間が必要とされた。  そう、彼がいま目の前の娘たちに晒しているのは、下半身の一部を汗に濡れた褌で隠しただけのおのれ自身である。  露出面積で言うならば、それはもう水着姿の比ではない。  いかに大人びているとはいえ、成人女性に脱皮するまでまだ幾分時間のかかりそうな葵にとって、それは直視を避けたくなるのも納得できる格好だった。  鈍いことではかねてより定評のあるケンタだが、さすがに自分の置かれた状況は認識できたようだ。  ばつが悪そうに頭を掻く。  ただし、ぷいとそっぽを向く葵に向けての謝罪や弁明の言葉はいっさいない。  ケンタとしても一応その気分を害したことに罪の意識的な思いを抱いてはいるのだが、それを具体的な言葉にすることにまで頭が回っていないのだった。  根本的な経験不足が露呈していた。  これを「残念」と言わずになんと言おう。 「朝餉の準備が整いましたらお呼びに参りますんで」  場を満たしだした微妙な空気を掻き分けるように、下女のおみつが口を開いた。  理由はわからないが、主家の娘より少しだけ年上に見えるこの下女は男の裸体にさほどの抵抗感を覚えなかったものらしい。  にこにこと愛想良く笑って彼女は言った。 「それまで、そこの井戸端で水浴びでもなさっててくださいよう」  のんびりしたおみつの言葉に促され、ケンタは「はいはい」と短く返事を繰り返しつつ離れの井戸めがけ駆けていった。  秋山家の井戸は、離れにある風呂場の側に設けられていた。  雨が入らないよう、きちんとした造りの屋根が設けられている。  つるべで汲み上げた冷水を頭から数回かぶり、さっぱりした気分で着物に袖を通したケンタが改めて朝餉に呼ばれたのは、それからまもなくのことであった。  囲炉裏のある板の間へ通されたケンタの前には、膳と大きめのおひつがひとつずつ用意されていた。  黒く使い込まれた膳の上に載っているのは、山盛りの飯とタニシの味噌汁、それに大根の漬け物が《《ふたきれ》》付いただけの献立だった。  一般的な二十一世紀日本のレベルで考えると、ありえないほど質素なメニューである。  飯も白米でなく玄米で、しかも三割程度は雑穀が混ぜられているようであった。  雑穀とは、主にヒエやアワのことを言う。  それは、現代人──いや、この時代から見るなら未来人か──の感覚で捉えるならペットショップで扱う「鳥のエサ」でしかない。  美味な代物でないことぐらい、ケンタにだって容易に想像できる代物だった。  そんなものの混ぜられた飯が、おひつの中身も含めて二合半──茶碗で山盛り五杯分程度あることを、ケンタは昨夜の夕餉で確認していた。  二合半。  この世界では常識的な水準なのかもしれないが、普通に考えればとんでもない量である。  平均的な現代人であれば、到底食べきれる量だとは思えなかった。  しかし、さいわいにしてかケンタはその「平均的な」部分の外に身を置いている人間だった。  ただでさえ人並み外れた巨体の持ち主であることに加え、彼は鍛えあげた分厚い筋肉で全身を覆う「プロレスラー」という存在なのだ。  日々肉体が必要としているカロリー数は文字どおり常人の比ではない。  もちろん、食べる量がその数字に比例して大きなものとなることも至極あたりまえの話であった。 「いただきます」  消化器官からの要求に誘われるがまま、ケンタは目の前の椀に箸をつけた。  空腹という最大の調味料がほどよく利いていたせいもあろうが、この味気ない献立をケンタは本気で楽しむことができた。  薪を燃料とする旧式なカマドで炊かれた飯は、これまで口にしてきた「御飯」というものがひょっとしてイミテーションだったのではと思わせるほどに美味であった。  玄米と雑穀の混ぜ合わせが味の面で純粋な白米に劣る食材であるとするならば、それは本当に物凄いことだ。  そして、もはや一部の郷土料理でしか食することのできなくなった「タニシ」という巻き貝を具にした味噌汁。  それは同じ貝類、例えばアサリやシジミを使ったものとは、はっきりと異なる味わいを醸し出していた。  あえて表現するならば、どこか「田んぼ」の味がするような、とでも言ったところか。  独特の土臭さが濃い目の味噌味とマッチして、飯のおかずとして実に合うのだ。  良く考えれば、米は水田に植えられた稲が実らせタニシはその稲を食べて成長する。  ある意味で同腹の兄弟なのだと言ってもいい。  であればこそ、そんな両者が味覚において良好なシンフォニーを奏でることも、決して不思議な話ではないのだろう。  少なくとも、ケンタはそう言い切ることにやぶさかでなかった。  思わず「うまい!」と嘆じてしまったのが、何よりの証拠だ。  良質なおかずがあれば、必然的に主食の消費も加速する。  ケンタは瞬く間に大盛りの一膳を平らげ、側に控える葵に向けて遠慮なくおかわりを頼んだ。  いま現在、この部屋にはケンタと葵がふたりでいるが、葵のほうはケンタとともに食事を取っているわけではない。  ここでの彼女の立場は、あくまでも客人であるケンタの世話係なのである。  日本人が食卓に会話の楽しみを持ち込むようになるのは、明治も半ばを過ぎてちゃぶ台が庶民に普及し始めてからのことだ。  もちろん、博識とは程遠いケンタはそんな事情など知る由もない。  家の主人や客人は家人の給仕を受けながら食を済ませるものなのだと聞かされて、昨晩の彼は少なからずカルチャーショックを受けた。  もっとも、ケンタの疑問に答えた葵のほうも同様に驚いた様子ではあったが。 「私、それがあたりまえのことだと思っておりました」  そう声を上げて目を丸くした彼女の顔が、いまでも鮮明に思い出せる。  その葵が突然小さく吹き出したのは、ケンタが差し出した椀をちょうど受け取ったその時のことだった。 「何か俺の顔に付いてましたか?」  思わず訝るケンタに対し、葵は「いえ」と前置きをしたうえで、「さきほど古橋さまがなされていた格好を思い出したら、なんだかとてもおかしくて」と、これに答えた。  もうこらえきれないとばかりに顔を背け、くすくすと笑い声を漏らし始める。  そんな風に言われてしまったら自分自身もそれを想像してしまうのが、まあ人としての性であろう。  その点に関して言えば、ケンタとて例外ではいられなかった。  ほとんど素っ裸という出で立ちで頭上に大石を掲げあげ、中腰を維持したまま呆けたような間抜け面を晒しているおのれの姿。  それは、余人に指摘されるまでもなく「ああ、なるほど」と思えてしまう、滑稽極まるありさまだった。  我がことながら、こちらもつられて吹き出しそうになる。 「毎朝、あのような稽古をなさっておられるのですか?」  そんなケンタに葵が尋ねた。 「ですね」  ケンタは頷いた。 「というより、四六時中身体を鍛えていないと、どうにも落ち着かないというかなんというか」 「そうですか。やっぱり」  微笑みながら葵が言った。 「あの金剛力士のようなお身体は、常日頃からの鍛錬がこしらえたものだったのですね。私、少し感動してしまいました」  言いながら葵はおひつから椀に飯をよそい、それをケンタに手渡した。  率直に誉められたことをくすぐったく感じたのか、ケンタは照れたような表情を浮かべてみせた。  歳不相応にも感じられる、少年のごときはにかみだった。  襖戸の向こうからこちら側に声がかけられたのは、そんな折りの出来事だった。 「御免」  それは若い男性の声だった。 「古橋ケンタ殿はこちらでござろうか?」  ケンタが短く応答する。  それと前後して戸が開けられ、稽古着を着たひとりの侍がその向こうから姿を見せた。  彼は板の間に足を踏み込むと礼儀正しく膝を折り、丁重に一礼したあとで朗々と名乗った。 「それがし、この道場にて代稽古を務める乾《いぬい》半三郎《はんざぶろう》と申す」  侍は言った。 「昨日、葵殿へのご助力を賜り、門人一同を代表し謹んでお礼申し上げる」  それは、見るからに「武士」という表現の似合う精悍な若者であった。  年の頃は二十も前半といったところであろう。  引き締まった表情に野心的な双眸がよく映える、まずは二枚目と言ってもいい面構えだ。  背丈こそせいぜいあって百六十前後であるが、二十一世紀に生きる同年代の青年たちと比べると、その全身にみなぎる精気には目を見張るものがあった。 「乾殿は、城代家老様の御用人、生島数馬殿の従兄弟にあたる方でございます」  ケンタに向かって葵が告げた。 「十代の頃は、剣術修行でもっぱら西国を行脚なさっておられたとか」  父の道場に通う門人の経歴に誇らしさを感じているのか、その言葉尻には押さえきれない弾みがあった。 「そりゃあ凄い」  それを聞いて、ケンタは素直に感嘆した。 「まさしく『剣客』って奴ですね」 「なんの、それがしなど、世間から見ればまだまだ赤子のようなものでござる」  半三郎は、ケンタから送られた讃辞に謙遜をもって応えた。  柔和な表情であった。  しかし次の瞬間、彼は一気にその面相を変化させ、刃のごとき光をその眼に浮かびあがらせた。 「時に!」  肉食獣の眼光をぎらつかせ、彼は言った。 「古橋殿は旅の武芸者であられるとのこと。なればぜひ、その身に付けた技を、それがしへ立ち合いにてご指南願いたい。曲げてお願い申す」  それは、遠回しだが仕合の申し込みにほかならなかった。  指南だって?  俺が?  ケンタの手から、ぽろりと箸がこぼれ落ちた。

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