極東黙示録1927 | 第壱章『帝都に舞う式鬼、霊鎮めたる巫女』
寝る犬

第漆話「騰蛇ーとうだー」

 煉瓦街《れんががい》の一角に、紅蓮《ぐれん》の炎が凝《こご》った。  渦巻く炎がファーチャの針を受け止め、中空に固定する。押すことも引くこともできなくなった針は赤熱《せきねつ》し、泡《あぶく》となった。  危ういところで針から手を放したファーチャが、後方へと蜻蛉《とんぼ》を切る。赤煉瓦《あかれんが》を踏みしめた彼女が顔をあげると、白銀の髪と肌は、炎の煽《あお》りを受け、紅《あか》く照り返した。  九条大和《くじょうやまと》の眼前で、赤黒い具足《ぐそく》がガチャリと鳴った。蕩《とろ》け落ちた針の上に、大柄な人影が立ち上がる。  それは平安時代の紅《あか》い大鎧《おおよろい》。憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》を形どった面頬《めんぼお》の上では、黒より黒い眼窩《がんか》がファーチャを見据えていた。 『……吾《やつがれ》は! 当《まさ》に汝命《いましみこと》形作らんとせしむ輔《たすけ》となして、敵《かたき》断《た》つ劍《つるぎ》成り!』  人ならざる者の、腹に響く低い声。大鎧の周囲で、炎が一段と勢いを増す。  紅い炎の舌が大和の頬をなでた。 「熱っ……!」  軍刀を握ったまま両《りょう》の腕《かいな》を上げ、固く目を瞑《つむ》って顔を隠す。しかし、すぐに両目を開いた大和は顔を上げ、目の前に立つ炎の武人《ぶじん》を不思議そうに見上げた。 「……く、ない?」  反射的に熱いと口にしたものの、大和は熱を感じてはいなかった。炎の武人は轟々《ごうごう》と炎を滾《たぎ》らせ、ただ大和を見下ろしている。  炎の周囲の空気は揺《ゆ》らめき、その熱が偽物《にせもの》ではないことを物語っていた。  揺らぐ空気の先で、黒い影が飛ぶ。指先から放たれた銀の針は、武人の鎧に突き刺さり、ゆらりと揺れ、そして蕩《とろ》け落ちた。 「九条《くじょう》……大和さん。何を依《よ》り代《しろ》に下ろしたのかは知りませんが、なかなかお強い式鬼《しき》を使役《しえき》するのですね」  虫でも払うかのように腕を振った武人から飛び退き、黒い民族衣装《サラファン》を翻《ひるがえ》したファーチャの声に、はじめて焦《あせ》りの色がにじむ。  立ち上がった大和は、武人の正体もわからないまま、ただ、これは好機《こうき》だと、それだけを思った。  武人の踏み込みに合わせ、軍刀を擦《す》り上げる。  ファーチャのブーツのつま先に鉄の刃が現れて、軍刀を斜めから叩き潰した。しかし大和もそれは半ば予想している。たわむ軍刀が折れる直前に両手を離し、ファーチャの細い足首へと滑り込むように蹴り足を伸ばす。飛び上がったファーチャの胴を、炎の拳が襲った。  布の焦げる匂い、黒い民族衣装《サラファン》に炎が移る。拳に足を載せ、後方へと飛び退いたファーチャは、空中で燃える衣服を脱ぎ捨て、重力を感じさせない動きで、垂直の壁に取り付いた。 「その炎、ただの火炎ではありませんね」  黒い民族衣装《サラファン》を脱ぎ捨てたファーチャの姿は、またしても漆黒であった。  艶《つや》のある黒革の拘束衣《ボンデージ》が、豊満な肉体を際立《きわだた》たせている。くるりと半回転して煉瓦《レンガ》へ着地すると、民族衣装《サラファン》と一緒に焼け焦げた髪留めをするりとほどき、顔にかかった銀髪を両手で跳ね上げた。  銀糸の一つ目が、まっすぐに大和を見つめる。感情を表すはずもない縫い取られた目の模様に、大和はファーチャの《《好奇心》》を感じた。 「面白い……本当に面白い子ですこと。ねぇ、九条大和さん」  大和が軍刀を拾い上げるのと、ファーチャが数枚の金貨を放《ほう》るのは同時だった。それは攻撃ではない。その証拠に炎の武人は反応を示さなかった。  大和は軍刀を握り、武人の背後へと身を隠す。  ばらまかれた金貨から、澄んだ音が響いた。 「|来たれ鉄の精霊《プリディジェレアズニーデゥフ》!」  耳慣れないロシアの言葉。陰陽術《おんみょうじゅつ》に明るくない大和にも、それが祝詞《のりと》の類《たぐい》であろうことは容易に想像できた。  それが証拠に、煉瓦《レンガ》の上に散らばった金貨から、同じ数だけの黒い影が一斉に立ち上《のぼ》る。  怪異を、式鬼《しき》を見る事のできる大和の左目を持ってしても、それは石炭を燃やしたあとに残る煤《すす》のように見えた。  丸いぼんぼりのような頭部、四肢《しし》の先へ向かって太くなる、奇妙な手足。体の表面には、所々|渦《うず》のような模様が見える。模様はゆらゆらと蠢《うごめ》き、渦《うず》の中央に時折《ときおり》覗く瞳には、邪悪な知性のようなものが感じられた。  五、いや六体。煤《すす》のような式鬼《しき》は同時に飛び上がり、炎の武人へと襲いかかる。 「来たっ!」  大和の声に反応し、武人は大きく踏み込み、一体の腕をむんずと掴んだ。ぐいと引き寄せ肩で強く当たる。炎に焼かれ弾かれた煤《すす》は、後方へ向けてパッと散った。手の中に残る煤《すす》の腕を握ったままドンッと腰を下げる。二体目、三体目の胴へ向けて両手を開き、『曳《エェイ》っ!』と気合を込めると、左右の煤《すす》も粉のように弾け飛んだ。  ここまで演舞を見ているように流れる動作である。すでに煤《すす》の式鬼《しき》は半数に減っている。比べて炎の武人は、相手に触れられることすらなかった。  そこにあるのは圧倒的な戦力差といえるだろう。それでもなお、ファーチャは金貨をさらに数枚放り投げ、ロシア語の祝詞《のりと》を上げた。  煤《すす》の式鬼《しき》が、もう一度金貨と同じ数だけ立ち上がる。立ち上がり、実体化しようとする一瞬のすきを見逃さず、大和は軍刀を薙《な》ぎ、一体を切り伏せた。  大和の動きに合わせ、炎の武人がもう一体の煤《すす》を吹き飛ばす。交差し、体の位置を入れ替えた大和と武人は、同時に煤《すす》たちへと振り返り、戦いの構えをとった。 「どうやら、次は貴女《あなた》の番のようですね!」  正眼《せいがん》に構えた軍刀を持ち上げ、小さな体を精一杯に使って上段に構え直す。天《てん》の構え、火《ひ》の構えとも呼ばれるこの構えは、大和の心の有り様《よう》を端的に表している構えと言えた。  本来、格上の相手に対してこの構えを取ることは失礼とされる。それでも、体格に劣る大和は《《最速》》の攻撃を行えるこの構えにこだわり、幼い頃から道場で数え切れないほど幾度《いくど》も叩きのめされて来たのだった。  そう言った経験を積んだ上での上段である。構えただけで大和の精神は一点に集約され、体は敵を断《た》つ一振りの刀《かたな》となった。  その大和の精神が、ぐらりと揺れた。  何が起きたのかもわからず、大和は片膝をつく。大和の横で炎の武人が、陽炎《かげろう》のように揺《ゆ》らめいた。 「あぁそう……そうですか。九条大和さん。あなた、《《自分自身》》を依《よ》り代《しろ》にして、神代《じんだい》の神を降ろしたのですね?!」 「自分……自身を……?」  身動きの取れない大和に向けて、煤《すす》の式鬼《しき》が襲いかかる。揺らめく炎の武人は腕を一振りして二体の煤《すす》を吹き飛ばす。しかし足元が定まらず、流れた体に他の煤《すす》が齧《かじ》りついた。  群がる煤《すす》を引き千切《ちぎ》り、武人が咆哮《ほうこう》する。  大和はより一層の目眩《めまい》を感じ、軍刀を地面に突き刺し、体を支えなければならなかった。 「自分自身を依《よ》り代《しろ》にするのはいいアイディアでしたね。それでも強力な式鬼《しき》は依《よ》り代《しろ》の霊子《れいし》を無尽蔵《むじんぞう》に浪費《ろうひ》する。……それが自身に縁《ゆかり》のないモノであれば尚更《なおさら》ですわ」  ファーチャは、口元に手をかざし、さも面白そうにくすくすと笑う。  彼女の見つめる前で、揺らめく炎の武人は幻《まぼろし》のように消えた。 「いえ、むしろ良くぞ神を降ろしたと褒め称えるべきでしょうね。えぇ、九条大和さん。本当に……面白い子ですこと」  銀糸で縫い取られた一つ目が大和を見下ろす。  大和はファーチャのブーツが煉瓦《レンガ》を踏みしめる音を聞き、そして全ては闇に包まれた。  ファーチャの色、漆黒《しっこく》の闇に。

ブックマーク

この作品の評価

37pt

Loading...