1 潮騒は初恋のメロディー

 今から百年ほど前の大正時代。  ここは、冬が去って間もない海辺の町。  その日、春の温かな日差しを浴びたユリカモメたちは、ギィー、ギィーと鳴きながら、生き生きと青空を飛んでいた。  冬鳥である彼らを見られるのも、あと少しの間だけだ。半月もしたら、日本から旅立つだろう。  そして、この海辺の町には、カモメたちよりも一足早く旅立とうとしている、とても小柄《こがら》な女の子がいた。  その女の子の名前は、朧月夜《おぼろづくよ》桜子《さくらこ》。この物語の主人公である。  たくさんの船が出入りする四日市《よっかいち》の港には、東京へ旅立つ桜子を見送るために、桜子の家族と尋常《じんじょう》小学校(昔の小学校)の先生や友達など三十人近い人たちが集まっていた。 「朧月夜桜子さん。尋常小学校を卒業したことをここに証《しょう》します。卒業おめでとう!」  立派なヒゲを生やした少し太りぎみの校長先生が、えへん、えへんとせきごみながら重々しい口調でそう言い、桜子に卒業証書《そつぎょうしょうしょ》を手渡すと、見送りのために集まったみんなはいっせいにパチパチと盛大《せいだい》に拍手《はくしゅ》をしてくれた。 「桜子ちゃん、おめでとー!」 「東京でも元気に暮らしてね、桜子ちゃん!」 「桜子さん、お手紙ちょうだいね!」  みんな、口々に桜子に別れの言葉を言い、中にはぐすんぐすんと泣いている子もいた。 「みんな、ありがとうな! わたし、東京に行っても、がんばる!」  いつだって元気いっぱいな桜子は、別れをおしみつつもはげましてくれる学校の友人たちに、咲きほこる春の花々のような明るい笑顔を向けて、白い歯を見せた。 「でも、さびしいなぁ~。桜子ちゃんが東京の女学校に進学するなんて……。本当やったら、あと一年はまだわたしたちといっしょに小学校に通えたのに……」  桜子と仲が良かった同級生の蘭《らん》という少女が涙ぐみながらつぶやく。すると、そばにいた担任《たんにん》の男の先生が、蘭の頭をなでてなぐさめた。 「友達のめでたい門出《かどで》を笑顔で送り出してあげなさい。優秀な成績が認められた朧月夜さんは、一年早く小学校を卒業して東京の名門女学校に入学することになったのだからね」 「けれど……」  もうすぐ十二歳になる桜子は、本当だったら、この春に尋常小学校の六年生に進級するはずだった。しかし、元々は学年で中の上ぐらいの学力だった桜子は去年から急に猛勉強を始めて、同学年どころか上級生の六年生たちよりも成績優秀になったのである。  そして、この時代に認められていた飛び級の制度を使って、一年早く小学校を卒業し、東京の名門女学校の入学試験を受けてみごと合格したのだ。  今ふうに言うと、小学六年生の女の子が中学校に入学するようなものである。  飛び級の希望者は、進学希望の学校の試験を受ける前に、飛び級を認めてもらうための試験も受けなければいけなくてすごく大変だった。ほどほどの学力だった桜子がなぜそこまで必死に勉強して飛び級したのだろうと蘭たち同級生は不思議に思っていたのである。 「蘭ちゃん、そんなさびしそうな顔をせんといて? 離ればなれになっても、わたしたちはずっと友達やに!」  桜子は泣いている親友にハンケチを差し出し、ギュッと手をにぎった。蘭はハンケチで涙をぬぐいながら「でも……」と言う。 「女学校を卒業したら、そのまま東京におる許嫁《いいなずけ》と結婚するんやろ? もう会えへんやん」 「そんなことないよ。ここはわたしの生まれ故郷やもん。夏休みには必ず帰って来るし、お嫁さんになってもたまには遊びに来るよ」 「……本当?」 「うん! わたし、大切な人との約束は絶対に破らへん! 指切りしよ!」  桜子と蘭が指切りをすると、その様子を見守っていた桜子の父親の梅太郎《うめたろう》が「う、うう……。立派に成長して……」と言いながら鼻水をたらして大泣きしていた。  娘を猫可愛がりしていた梅太郎は、本音を言うと、飛び級なんかせずに小学校卒業後は地元の女学校に通ってほしかったのである。でも、どうしても東京の学校へ進学したいという桜子の願いを無視することができなくて、泣く泣く可愛い娘を送り出そうとしていた。 「日本一可愛い桜子が、人がたくさんいる東京で生活するなんて、心配だ……。悪いやつが、桜子の世界で一、二を争う美しさに目をつけて、誘拐したりしないだろうか……。いや、もしかしたら、どこかの伯爵の息子やえらい政治家の息子が、全宇宙で最高の愛らしさをほこる桜子にほれて、求婚者が殺到《さっとう》したらどうしよう。桜子には、ちゃんとした許嫁がいるのに……。困った、困ったぞ……」  心配のあまり、梅太郎はまわりの人たちがあきれるほどの親馬鹿な妄想をして、泣きながら「ああ、やっぱり、娘を東京に行かせるのは心配だ……」とぶつぶつ言っている。  ちなみに、梅太郎の話の中で桜子の可愛さのレベルが日本一→世界一→宇宙一とだんだん上がっていくのは、いつものことなのでだれもツッコミは入れなかった。  日本一かどうかはわからないけれど、小さな桜子は猫みたいな小動物っぽい雰囲気《ふんいき》があり、とても可愛い女の子である。本当ならまだ小学生のはずの可愛い娘が旅立つことに、悲しんでおいおいと泣いてしまうのは、仕方ないことだろう。 「あなた、そろそろ妄想をやめて、泣きやんでください。旅立ち前の涙は不吉だと言うでしょう?」  桜子の母・藤子《ふじこ》が小さな子供をあやすようにそう注意すると、梅太郎はズビビ~と鼻水をすすりながら「うん……わかった……」と言ってうなずいた。 「お父様、ごめんなさい……。わたしのわがままを聞いてもらって……」  梅太郎が泣いているのを見て、桜子は申しわけなさそうにうつむいてあやまった。  すると、背の高い美形の青年が桜子の頭をポンポンとなでて、「あやまらんで、ええんや」と言った。  桜子は、「お兄様……」とつぶやきながら、十歳年上の兄・杏平《きょうへい》を見上げる。  杏平はいつも無愛想《ぶあいそう》にだまっていて目つきも悪く、近所の小さな子供たちからは恐がられているけれど、口を開いたら意外にもおだやかな声で話す、優しいお兄さんなのだ。 「おまえは朧月夜家の大事な娘なんや。何も遠慮することなんてない。東京でやりたいことを見つけたおまえを応援するのが、オレたち家族の役目なんやからな。困ったことがあったら、電話でも手紙でもええから必ず連絡するんやぞ」 「……ありがとう、お兄様!」  笑顔にもどった桜子は、太陽の光でキラキラと輝く伊勢湾の青い海を希望に満ちたまなざしで見つめ、 (柳一《りゅういち》さん、いま会いに行きますね!)  と、心の中でつぶやいた。  柳一とは、親同士が決めた桜子の許嫁である。彼は東京に住んでいるが、去年のちょうど今ごろ、この四日市の港町に二週間ほど滞在していたことがあって、桜子はその時に初めて自分の未来の夫と出会った。  しかし、二人は一度も言葉をかわしてはいない。  桜子より三つ年上のその少年は、だれもそばに近寄せないような、人と関わるのを拒絶する冷たい雰囲気をただよわせていた。  まだ十一歳にもなっていなかった桜子は、柳一のことが恐くて、話しかけることができなかったのである。 (でも、不思議と心ひかれる人だった。昔のわたしと似ているから……かな?)  桜子は、九歳の時に言葉では言い表せられないほど悲しいできごとがあり、固く心を閉ざしていた時期がある。  あのころは、だれとも仲良くしたくなかったし、何を信じていいのかわからなかった。柳一は、昔の桜子とよく似ていたのだ。  柳一がなぜ桜子の町に滞在《たいざい》していたのか桜子は知らない。彼は毎日何をするわけでもなく、朝から夕方までずっと海岸にいて、ただぼんやりとしていた。  話しかけるのは恐いけれど自分の婚約者がどんな人なのか気になって仕方がなかった桜子は、少し離れた場所から木に隠れて、柳一のことをじっと観察していたのである。  押し寄せる波で足がぬれることも気にせず、柳一は青い海だけを見つめ続けていた。背中から孤独と哀愁《あいしゅう》をただよわせて……。 「この海の青に溶けこんで、消えてしまえたらいいのに」  何度か、柳一はそんなひとりごとを言った。ポツリとつぶやいたのではなく、波の音に負けないぐらいの大きな声でハッキリと、まるで心からそう願うように彼は「消えたい」と口にしたのだ。  痛々しいまでに悲しいその言葉は、離れた場所にいる桜子の耳にも届いた。 (この人をこんなにも悲しませとるのは、いったい何なんやろう?)  ぎゅっ……と胸がしめつけられたように苦しくなり、彼の力になれないだろうかと思った桜子は勇気を出して声をかけてみようと、一歩、二歩とおそるおそる柳一に近寄った。 「だれだ」  後ろから近づく気配に気づいた柳一は、ビクッと肩をふるわせて振り返る。  目と目が合った。  とても冷たいまなざし。  他人を遠ざけようとする険《けわ》しい顔。  でも、息を飲むほど美しく整った顔立ち。  だれも近寄るな、とその黒々とした瞳は訴えていた。けれど、その涙にぬれた瞳は弱々しくゆれていて、一人はさびしくてたまらないと彼は心の奥底では思っているのだと桜子にはわかった。自分も、昔はあんな目をしていたから。 「…………」  時が止まったかのように、桜子と柳一はその場に立ちつくして見つめ合う。  ざざぁ、ざざぁ……と潮騒《しおさい》の音だけが、世界の時間が止まってはいないことを教えてくれる。  自分の心臓が波打つ音と潮騒の音の区別がつかないほど、桜子はドキドキしていた。  桜子の恋は、押し寄せる波のように突然やって来て、その小さな胸をいっぱいに満たしたのである。  目の前で困惑ぎみに自分を見つめる美しい少年の孤独の影を何とか取りはらって、彼の笑顔が見たいと心から思った。悲しみに満ちた顔よりも、明るく笑っている顔のほうが、彼は何倍も素敵にちがいないと感じたからだ。 「あ、あの……」  桜子は何か言おうと思ってそうつぶやいた。  しかし、柳一は桜子に声をかけられると、ハッとなって顔をそらし、逃げるように海岸から立ち去ってしまったのである。  一人取り残された桜子は、潮騒の音に耳をすませながら、まだドクンドクンと高鳴る胸をそっとおさえ、柳一が眺めていた海を見つめた。 (海に溶けこんで消えたいなんて……なんでそんな悲しいことを柳一さんは言ったんやろう? どうしたら、あの人は笑ってくれるんやろう……?)  心を閉ざしていた桜子が笑顔を取り戻すことができたのは、朧月夜家の家族のおかげだ。梅太郎や藤子、杏平がそばにいてくれたから自分は一人なんかじゃないと信じることができるようになった。柳一にも、そういう人がきっと必要なのだ。 (わたしが、柳一さんのそばにいよう。そして、あの人を笑顔にするんや)  桜子は、そう決心した。  でも、柳一のそばにいるためには、東京に行かなければいけない。小学校をあと二年、地元の女学校を五年間通って、柳一と結婚する日まで七年もある。 (七年後なんて遠すぎる……。一日も早く東京へ行きたい!)  そう考えた桜子は、東京の女学校に進学することを思いついた。  しかし、都会の学校だから入学試験は難しいにちがいない。絶対に合格するためにもがんばらなきゃと気合いを入れた桜子は猛勉強を始めたのである。  どんな時でも猪突猛進《ちょとつもうしん》、一度こうと決めたらひたすらいちずな桜子は、自分でもおどろくぐらい学力が上がり、担任の先生から飛び級試験を受けてみないかとすすめられるほどになった。  そして、イチかバチで受けた飛び級試験に合格し、そのあとすぐに東京の名門女学校の試験にも受かったのだ。  ただし、女学校の合格通知が届いたその晩、桜子は勉強疲れがたたって高熱を出してたおれ、一週間ほど寝こんでしまった。そうとうな無理をしたのである。 (でも、これでようやく柳一さんのもとに行ける。待っとってね、柳一さん!)  桜子は、今から船出する伊勢湾の海を望みながら、東京の許嫁に心の中で呼びかけた。  柳一には、この海が「悲しい涙の色」に見えたのだろう。だから、海の中に溶けて消えたいなどと言ったのだ。  でも、海辺の町に生まれて「海は幸せを運んでくるんだよ」と港で働く大人たちから教えられて育った桜子には、海の青は希望の色に見えた。海を眺めていると、前向きな気持ちになれる。 「どんなに苦しい時でも前向きやないと、楽しくないもん。わたし、東京でどんなことがあっても絶対に負けへん!」  桜子の元気な声にこたえるように、ざざぁ……と潮騒の音が鳴り響く。桜子にとって、潮騒は初恋のメロディーだ。柳一の美しい顔を思い出し、桜子の小さな胸はドクンドクンと波打つのだった……。

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