古狸 最終話

 里の夜。その日、阿嘉把に浮かぶ月は心なしか奇妙に赤く、光を受けた連山は、夏にも関わらず自然とほのかに紅葉したかの如く映る。雨宮青年も、また光の影響を受けたのか、常ならぬ精神に陥っていた。危機を承知で山中に独り立ち入る彼の現在は、異常と評して差し支えなかったろう。  カサリカサリと、青年の後ろで音がした。湿気を含んだ瑞々しい草が弾かれ、さざめくような。そればかりではない、耳をすませば聞こえたはずである。荒い息を吐く数多の声が、もはや彼のすぐ数歩の内へと近づいていたことに。殺気立つ、とはこのことか。  その時風のせいなのか、天から降ったように青年の足元近く、一粒の赤い木の実が落ちた。落ちた実は斜面を転がった。ころころ、ころころと小気味よく回った。青年の視線はぼうっと、ただ木の実を追って、背後を顧みた。先にあったのは光る二対の目。光の届かぬ樹の下で、こちらをじっと見つめる人間の目。その脚に添うのはギラギラと、同様に目を輝かせる獣の目である。  青年は瞬間、ようやく我に返った。脳裏に浮かんだのは三島雪の警告と、血を流す穂積の祖父であった。同時に、獣の跳びあがる姿が目に入る。アッと言う間もなく間近に迫るその黒々とした身体、白い牙。本能で、彼が両脚に力を込めて横っ飛びすると牙が虚空をかすめた。樹を背にして体勢を立て直した青年は、全速力で走った。彼は狼狽した。後ろを振り返る余裕などなかったが、ただ直線に走って逃げ切れると考えるほど自らの脚を誇りに思ってもいなかった。林立する木々を縫うように、走る、走る。背後から迫る気配は十を越えたか、すでに喧噪のように大きくなっており、無数の跳ねる音、弾く響き、唸り声が全て青年という一点に猛進して来ていた。捕まればひとたまりもない。 ――嗚呼、僕はここで死ぬのか――そう思ったのは木の根に足を取られ、宙に踊った、何秒にも感じられる一瞬だった。  転がった青年は尻もちつきながら後ろを見た。血走った獣の瞳が月光に照らされ、今度こそ彼を逃がさぬと一直線に飛び込んできた。巨躯を持つ黒い獣が、彼に食らいつくべくした最後の跳躍。  その刹那に、青年と黒獣の間に割り込む一個の弾丸があった。猛り狂った獣の無防備な横腹に、叩きこまれた体当たり。それは何か別の生き物だった。鋭い牙をむき出しにし、太い尾の毛を逆立たせた何か。ぶつかり合った二個の塊は影となってもつれあい、格闘し、激しい声を響かせながら一回転した。すると黒獣はたまらず逃げ出し、残された一方がそれを追った。変化は周囲にもあった。青年を追っていた複数の獣。これら全てに向かい、まるで草から放たれたように突如として襲い掛かるいくつもの影が現れたのだった。  青年は茫然とした。夢か、はたまた恐怖で幻を見たか、ついそのような疑いをもった。しかしそこかしこで相争う影の様子が、彼の目の前にはあった。唸るような威嚇の声、噛みついた牙から血とともに垂れる獣の臭い、暴れまわる影に踏みにじられる草の音。姿こそ暗闇に阻まれるが、どれもが戦場のような烈しさをもって青年を圧倒した。  一体何が起こっているのか、青年にわかるはずもなかった。だが、今はこの機会を逃す手はあるまい。一度折れかけた彼の心は再び力を取り戻し、生命への渇望が両脚を奮い立たせた。もう振り返るまい。ただそう考えて、青年は走った。只管走った。そうしてついに、赤き山を下った。  山と人里の境を越えると、雨宮青年は倒れこんだ。ぜえぜえと呼吸を乱しながら、何とか戻ってこられたという安堵に彼は包み込まれた。すると自然に反省が生じた。危機一髪だった。獣がいるとは聞いていたが、これほど危険な地帯だっとは思ってすらいなかった。何故数多くの獣が示し合わせたかの如く彼を待ち受けていたのか。獣の傍にいた人間は誰だったのか。いや、それだけではない。彼を助けたように見えるあの影も何故突然現れたのか。疑問は募るばかりで、どこにも答えを示すものはなかった。ただ二点、青年を襲った黒獣の、大きく見開いた瞳と、助けた影の太く、ふさふさとした尾が、彼の心の中で鮮明に残り続けていた。  翌朝は打って変わって穏やかそのものだった。夏の陽を受け、寝具そのままにまた縁側に座り込む雨宮青年。予感は確信になりつつあった。  昨晩、獣たちの傍で佇んでいた人間。彼を襲ったのは確かに野犬であり、一連の野犬事件には人の手が関わっている。何者かはわからないが、青年に敵意を向けていたのは明らかだった。三島雪の言っていたことは、おそらく超常的な一面においては真実だったのだろう。確証はなくとも、ぼんやりと青年はそう感じざるを得なかった。  そしてその朝、青年の住処に、あの太い箒のような尾を持ち、憎たらしさと愛嬌を持った、例の生き物は来なかった。 (もう、来ないのだろうか)  青年はひとり考えると、胸の奥の痛みと寂寞を慰めるため、そっと瞼を閉じた。すると、ガサガサと音がした。林をかき分ける音。昨日の出来事のために、緊張と期待が走る青年。  不安と期待を感じ、茂みを見つめる。——ガサガサガサガサ。草の奥から現れたのは、たしかに狸だった。が、しかし、その姿は前のずんぐりとした古狸でなく、年若く、まだあどけなさを残す狸。青年のいる縁側に近寄り、キャンと力なく一鳴きすると、こちらを見つめ、ただそこに鎮座した。それはかつての古狸の子だったのか。青年にはわからなかったが、若い生命が姿を現したことで、彼の心は幾分かの癒しを得た。  夏の陽気が、彼らを暖かくした。穂積の様子はどうだろうか。善次郎や三島雪、三島昭ともまた話す必要があるだろう。青年は立ち上がり、一狸に微笑すると。 「ありがとう」  そう言って居間へと下がっていった。若い狸も、太い尾をぱたぱたと揺らすと、茂みの中に隠れてしまった。

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