古狸 十四話

 朝。善次郎の主宰する会合に顔を出した翌日。雨宮青年がこの辺鄙な田舎へと移ってきたから、十数日が経った。越してきたばかりこそあわただしく過ごした彼の生活も、ゆっくりと落ち着いたものとなってきている。起き抜けのコーヒーを飲みながら、ぼんやりと山を眺める。テレビではニュース番組が街の出来事を報じていた。住んでいた頃は一定の当事者意識をもって見ていたそれも、今では外国の話のように感じられる。当時と現在、時事が青年自身に及ぼす影響という点では大きく異ならないはずだが、場所的な遠さ、共同体の性質が変わると、これほど受け取り方も変わるものかと不思議に思われた。そういう意味では、田舎に住まう者の方が、社会との距離を正確に理解しているかもしれないとも。  山を前にすると、心が自然悠々とするのを感じる。同時に、なにかもの悲しさがある。雨宮青年がこの地に来たのは、縁があるとはいえ今回の転居がほぼ初めてと言って良かった。にもかかわらず、青年の心には多分に漏れず原風景とやらがあるようだ。一体いつ植え付けられたのやらと、そんなことを考えていると、青年の前にまた一匹の狸がやってきた。古い狸。しかし、少しばかり毛の色つやが悪くなっているように思えた。 「どうした、縄張り争いにでも負けたのか」  青年が同情した風で、また話しかける。いつも通り、狸の方は日向ぼっこに興じ始めた。 「お前は変わらないな」と、青年独りごちたところに。 「おや、バレちゃいました?」  ひょいと穂積文子が顔を出す。外壁に隠れ、首だけ見せるその姿は子供の所作を思わせるような。 「一体いつの間に……驚かさないでくれ、と言うか玄関を通ってくれ」  雨宮青年の住む家屋は生垣と雑木林にぐるりと囲まれている。しかし、生垣には戸が備えられており、知己となって以来、文子は玄関を通さずしばしばその戸より訪ねて来ることがあった。 「そう思うなら、鍵、かけたらどうですか?」  笑う少女。事実、錠前が用意されてあったものの、青年は不用心にも鍵をかけていないことが、多々あった。いっそ、通りを封鎖しようかとも考えたが、存外生垣を一周するのも面倒で、穂積家へと向かう際には青年自身、件の戸を使うことに利便を見出していた。 「どうも、鍵と言ったら玄関のイメージしかなくてね。ついつい忘れてるだけさ」 「じゃあ、私は博さんがお庭の戸にも鍵をかける習慣をつけるまで、抜き打ちでお邪魔します」  と、調子の良い話を言い出す程には、少女と青年の仲も打ち解け始めていた。いつの間にやら青年のことも、雨宮でも月山でもなく名で呼んでいる。とは言えこの少女、性分は快活であるが誰の領分にもずかずかと土足で入る遠慮なしでもなく、許されるであろうこと承知の上でようやくである。そのため青年は青年で「またなにを言うかと思えば」と苦言を呈する形を見せるが、その表情は愉快そうである。 「これ、昨晩つくった煮物です。おばあちゃんがせっかくだからって」  少女は手提げから容器を取り出した。見れば根菜の類を主に煮込んだ昔ながらの美味そうなのが。茶ばかりではなく赤緑と色どりもよく、小鉢に添えれば食事を華やかにするだろうと今から心が弾んだ。 「ありがとう、いただくよ。」と、青年うやうやしく拝受する。  頂戴した品を冷蔵庫の方へしまいに行っていると、ふと、先ほどの用心不用心のやりとりから、青年は昨日の帰り道のことを思い出していた。帰り道、と言っても彼の家の傍で演ぜられた事件であった。  少年と別れたあと、青年はひとり帰途についていた。日も暮れて、周囲は街灯の光のみが頼りなく道筋を照らしている。虫の声と自らが蹴り飛ばした小石の転げる音が、青年の無聊を慰めていた。  家に近づくと、女が一人立っているのが見える。髪の長い女。こんな時間にこんな場所。一体何かしらんと不思議に思ったが、知れば知ったで面倒ごとと思い素通りしようとしたものの。暗がりから相手の方から声をかけてきた。 「随分遅くまで遊び歩いてたのね。待たせる身のつらさも結構だけど、待つ身の気持ちも考えてほしいものね」  何のことやらと考えつつ、記憶を探りながら顔を見ると、その女は三島家の長女、三島雪であった。あの地下牢の女。しかし、青年にはその女と待ち合わせなどした覚えもなく。 「やあ、お屋敷以来かな。しかし何かね。待たせたつもりはなかったが」 「あら、私が来るのは予想外だったかしら。意外と呑気なのね」と、笑う。 「一体どういうことだい?」  青年は腑に落ちぬような顔をしている。 「あなた、今日、サジにみられたでしょ?」  また説明不足に雪が聞き返すと、青年はようやく理解したような、それでいてまだ解しきれぬと言うような。 「たしかにあの老人は今日家に来た。見られたってのは、やはり善次郎と僕がもう仲間となっているってことかい? でもそれと君がいまここにいることと何が関係が?」 「あの人、騒いでたわよ。月山の坊ちゃんが善次郎とそれはもう仲が良さそうにしてた。しかも我々にはあたりがきつくて、ってね」 「そりゃ誤解だ。……いや、誤解ってほどでもないが」 「あなたがどう思おうが、母さんにとってはサジが目や耳よ。いちいち周辺の様子を探りに行くほど暇じゃないし、そんな仕事死んでもしないわ。まあ、あの人が誇張気味に話すということは知ってるはずだけど」 「じゃあなんだい。君の家に行って、母上に『老人の言ったことを真に受けるな、僕はあなたの敵じゃない』と忠言でもすればよいのかい」と、青年が苦笑して。 「そんなことしたら、自分が敵か、阿呆かだと言ってるようなものね。アハハ」  雨宮青年の力の抜けたような冗談には雪も声を出し笑った。 「そうは言っても、直接訴えて信じてもらえないなら、僕はどうすればいい。善次郎たちとはたしかに友人だが、別に君たちとひと悶着おこそうなんて気はさらさらないんだ」  青年の本心から出た言葉に、女も表情を変え。すこしばかり値踏みするようなまなざしを向けると、にこりと、清楚な微笑を浮かべた。 「道はないわ。残念ながら。だから注意しに来たのよ」  青年の心には、この女が彼と三島の家との関係を取り持ってくれるのではないか、そう期待していた面が少なからずあった。だから、雪の返答に、青年は失望した。加えて『注意』という剣呑な響きに、わずかな不安を抱いた。 「注意って、何を」 「さあ……? 注意は注意、通知、勧告よ」 「何が言いたいんだ」  女の要領を得ない問答に、青年は青年で、今になって焦燥してきてしまった。それは、この阿嘉把に来てからの自身の行動にうかつがあったやもしれぬという疑念が動力であった。女の美しい顔が、濡れそぼった瞳が、何か無情なもののように見えてきて、同時に、引き込まれるような心持がした。青年からは今や街灯の光は消え、虫の音も聞こえなくなっていた。  ふ、と。また、かすかに女が笑った。 「去年、里の人間が死んだわ」  ぞくりと、背の肌が粟立つのを感じた。

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