古狸 三話

 鳥の声が聞こえる。草の揺れる音がする。寝ぼけ眼をこすりながら半身を起こす。  慣れぬ寝室での目覚めは、人をして違和感を覚えさせるものであるが、やや神経症の気がある雨宮青年にとって、落ち着かないのは当然であった。そのためか、部屋ばかりか窓の外も薄暗いことに気づくのにしばらくかかり、すわ寝過ごしたかと慌てた勢いで布団をもつれさせながら、時計代わりの携帯電話を見ると、沁みる光で照らされた文字は未だに午前の早朝を示していた。  ひとまず安心とまた布団に戻るその姿は完全に自堕落な生き物の動きである。と、自身認識をしながらも、折角の田舎、療養休養せねば勿体ないと、言い訳を自分につぶやく。がしかし、眠れない。寝慣れた場所ではないせいか、目が冴えてしまったようである。  ふと、腹がぐるぐると鳴ったのが聞こえた。  思い返せば昨日の長旅からまともに飯を食べていない。電車を降りた先での立ち食い蕎麦くらいか。そう考えながら、のそのそと布団から出ると、ようやく起床の体をなしてきた。  旅行鞄を開き、中を確認する。スティック型の携行食があったので、仕方なく食べはじめた。味気ない食事にせめてもの潤いをと、窓を開け縁側に寄った。初夏の緑を目いっぱいに取り入れながら、独り無言で食事する姿はどこか老後を思わせるような……。咀嚼。嚥下。また咀嚼。  そろそろ暑くなる時節とはいえ、まだこの時間帯は流石に風が身体を冷やす。やはり奥へ引っ込もうと、青年天然のひきこもり性分が顔を出し始めたところに、物音が聞こえた。 ——ガサ……ガサガサガサ……  青年が座していた縁側のまさに正面、庭からのようである。人気のしないこの時間この場所で、迷いなく自らに近づくその音の不気味なこと……何事かと息を吞み構えていると、人の腰ほどに伸びた雑草がゆらゆらと揺れうねりだし、ばっさりと縦に二分された。  夏の見せる陽炎か、その間から現れたのは摩訶不思議な物の怪——ではなく、褐色の、ずんぐりとした一匹の狸であった。  落胆とも安心ともつかぬ様子の青年であるが、すでに一杯食わされた、いや、化かされた形である。当の狸はというと、我が物顔で庭に鎮座し、青年をちらと一瞥、大あくび。そのまま丸まり、眠りそうな様子。 「人の家で随分図々しいことだ」  人なればこそを、獣相手に思っても詮無きこと。青年が食べていた携行食を一欠片、ポイと投げる。手前に落ちたそれを、狸は一度見、やはりまた大あくび、したかと思うとふさふさと毛の揃った尻尾を大きく振るう。勢いのついた尻尾はまさに箒のように、落ちた欠片を払い飛ばす。飛ばしたそれはくるくると宙を舞い、ものの見事に青年の額に直撃した。 「あいたっ!」  と、思わぬ反撃に、混乱する青年。ええい、この狸、どこぞの民謡のように鍋にでもしてやろうか、と剣呑な言葉が一瞬頭をよぎったが、自分はなにをムキになっているのかと今更に気づき、ため息をついた。  そんな哀れな道化を演じているうちに朝日は昇りきり、明るい陽射しが狸の座る場所に差し込んだ。なるほど陽が当たる場所を知っていたのか、とすれば、自分からすればこの家の先輩であろうかと青年一人で得心した。そう思うと、何か親しみらしきものさえ感じ始め。 「うちの爺さんとも知り合いだったのか?」  と、人語を向け始めた。傍から見れば珍妙であるが、意外にも獣は言葉に反応したのか、いやひょっとすると人語を解していたのか、キャンと高い声で鳴いた。犬とも猫とも思えるその聞きなれぬ鳴き声を聞くと、しかし青年心情温まり、返すようにウフフと笑った。  大の男が、なかなか他人には見せられぬ仕草である。青年は青年で満足したのか、「さて、もうひと眠りするか」と、縁側の戸を閉め、また布団のなかに引っ込んでしまった。それを見つめる双眸、親しげな視線。また一度キャンと鳴くと、今度は本当に眠りについた。  昼が過ぎた頃。文子との約束を何時何処でと定めていなかったことを思い出した雨宮青年が、頭を抱えながらのんびりしているところへ、ベルの音が響いた。訪ねる者の心当たりは一人しかない。 「こんにちは!」  開口一番、快活な声をあげる少女、穂積文子。何がそんなに嬉しいのか、口角は高く上がり、薄い唇からは白い歯が見える。目を細め笑う顔は上機嫌そのものである。 (犬みたいだな……)  今朝の出来事のためか。自身よりも幼いことも相まって、文子の愛嬌のある表情に動物を見出す青年。しかし苦笑しつつも、この地への歓待を受けた彼もまた満更でもない。 「ようこそ。待っていたよ」 「今朝はよく眠れましたか?」 「案外ぐっすりね。今は気力が充実してる。さあ向かおうかね」  と、一言二言の挨拶を交わし、門を出たところで青年はふと、おやと思うところがあった。 「そういえば君は学生だろう。今日は学校はどうしたんだい」  疑問を口に出すと、楽しそうであった少女の表情が一変、ひきつったものとなる。心なしか歩幅が狭くなりやや早くなったように思われた。 「……」 「あっ……もしかしてわざわざ休みを?」 「いえ……」   そのまま口を閉ざしてしまった文子。歩みこそ止めぬものの、沈黙が広がり面白くない空気が漂い始めた。青年は何とはなしに流れる雲を望む。その時、一片が山に隠れた。本日晴天。されど雲行き怪し。

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