極東黙示録1927 | 第壱章『帝都に舞う式鬼、霊鎮めたる巫女』
寝る犬

第陸話「ファティマ・ラスプーチナ」

 銀糸で縫い取られた一つ目が、九条大和《くじょうやまと》を見据えていた。  息が止まってしまったかのように、大和は咳《しわぶ》き一つ立てることが出来ない。ただ磁石のように惹きつけられ、黒と白に彩《いろど》られた女を見つめるだけだった。 「そう……。そうなのですね」  色のない小さな唇がわずかに動き、澄んだ硝子《ガラス》のような声が大和《やまと》の耳に届く。スルスルと衣擦《きぬず》れの音が続き、いつの間にか女の顔は、大和の鼻先まで迫っていた。  日本人とは違う。色というものが抜け落ちてしまったかのような透き通る肌。それにもまして白銀の輝きを放つ銀の髪。大和はその美しさに息を呑む。  女の表情は笑顔のように見えた。それは千鶴《ちづ》の怪我を癒《い》やしたときと変わらない。しかし大和は、その姿に言いようもない郷愁《きょうしゅう》にも似た思いと、根源的な《《恐怖》》を感じた。 「……な……にが、そうなんですか」  なけなしの勇気を振り絞り、やっとそれだけを口にする。視線をそらし、腰の軍刀へと伸ばした手に、女の白い手がそっと触れた。  それは、子供のいたずらを諌《いさ》めるような、優しい触れ方である。しかし、それでもなお大和は、体中の血が抜け落ちる感覚を味わった。 ――つまり『死』そのものを。  大和の体がこわばる。女はそれを見てパッと破顔した。 「あら、そう言えばまだ自己紹介もしておりませんでしたね。失礼いたしました」  足首まである真っ黒な民族衣装《サラファン》を軽く持ち上げ、腰をかがめる。  体から発する雰囲気とその仕草の大きな落差に、大和はただ、黙ってそれを見つめていた。 「私《わたくし》はファティマ。ファティマ・ラスプーチナと申します。教会ではファーチャと呼ばれていますわ。ふふ……大丈夫、今はあなたの番では無いですから。もちろん、あなたにも可能性はありましてよ……ねぇ、陰陽独立特務大隊《おんみょうどくりつとくむだいたい》の九条大和《くじょうやまと》さん」 「……ぼくには、貴女《あなた》が何を言っているのか……いや、どうしてぼくの名前を……?」  ごくりとつばを飲む大和の視線の先で、銀の一つ目が真っ直ぐに見つめ返している。モノクロームに染まるファーチャの姿が、ゆらりと揺れた。 「……でも、あなたのその声……少しだけ……素敵ですわね」  大和の問いかけには答えず、ファーチャはつぶやく。その声音《こわね》と、色のない唇の間からちらりと覗《のぞ》いた赤い舌先に、大和は凍った海の中に居るような感覚を味わった。  燦々《さんさん》と太陽の照らす白昼の銀座である。三月とは言え、寒さなど感じようはずもない。それは、大和の心がファーチャの霊子《れいし》に共振した寒気《さむけ》であった。  小さく、鈴の音《ね》が鳴る。  いつの間にか、すらりと伸びたファーチャの指先に、銀色の長い《《針》》がすとんと落ちる。指をかけた輪の付け根に、同じく銀色の小さな鈴が揺れていた。 「ごめんなさい。本当はまだあなたの番ではないのですけど……。えぇ、これはただ私《わたくし》の個人的な欲《よく》なのです。いけませんね、聖職者《せいしょくしゃ》が欲などと……。本当に……ごめんなさい」  ちりん、ちりんと音を立てながら、銀色の長い針がくるくると円を描く。 「最初は……その紅《あか》い目にいたしましょうか? それとも、最後にとっておいたほうがよろしいかしら?」  刹那、ぴゅんと風をきる音が鳴ったかと思うと、大和の頬には鮮やかに赤い線が長く引かれていた。 「……そうですね、とっておきましょう」 「くっ……痛《つ》ぅっ!」  大和の苦痛の呻《うめ》き。ゆっくりと引いた針の先端には、大和の紅《あか》い血が滴っていた。その雫が流れ落ちるのを受け止めるように、ファーチャは自分の白い手のひらの上に針の先を置く。 「えぇ……えぇ! もちろん! 次は私《わたくし》ですわ」  興が乗ってきたとでも言うように、真っ白なファーチャの頬が、ほんのりと朱に染まる。ちりん……また鈴の音を鳴らし、ファーチャは紅《あか》い不思議な模様を手のひらに描き、そのまま力を込めてぐいと針先を押した。  ぷつり。  一瞬の抵抗の後、針先が手のひらに埋まってゆく。  固く閉じたファーチャの唇から、小さな呻《うめ》きが漏れた。それでも彼女の手は止まらない。自《みずか》らの左手を貫通し、手の甲から姿を現す赤銅色《しゃくどうしょく》に染まった針先を見て、引きつるように力の入っていたファーチャの頬から、やっと力が抜けた。 「ふふふ……あは……はは……次は……また、あなたの……番ですわ」  色のない唇から透明な唾液《だえき》の筋を流し、一気に針を引き抜く。痛みに小さく震えながらも嬌声《きょうせい》を上げると、ファーチャは口角を釣り上げ、笑った。  手のひらから細い指先を伝い、大和と同じ紅《あか》い血が煉瓦《れんが》に滴《したた》り落ちる。ちりん……と言う鈴の音を聴いた瞬間、大和は軍刀を杖に立ち上がり、距離をとった。 「……貴女《あなた》は、狂ってる」 「そうでしょうか? 霊も真理も神をも信じず、良い行いの理論も信奉《しんぽう》せず、平等とは程遠《ほどとお》い貧富《ひんぷ》の差を生み出し続けるあなた方のほうが、私《わたくし》には狂って見えますわ」  まるで言い慣れてでもいるように、平然と、そして淀《よど》みなくファーチャは反論し、首を傾《かし》げる。  大和は論点のずれた反論に答えることなく、まだ震える足をなんとか踏ん張り、すらりと軍刀を抜いた。 「あぁ……本当に汚《けが》らわしい。あなた方はそうやってすぐ物事《ものごと》の理《ことわり》を破ろうとする」  がっくりと肩を落とし、ファーチャは大きなため息をつく。左手を持ち上げ、手のひらの傷に舌を這《は》わせると、舌先で自分の血をすくい上げた。  血に濡《ぬ》れた舌が唇をなぞり、色のない唇を紅《べに》に染める。  指に掛けられた銀の針が鈴の音を鳴らし、その鋭い先端は大和へと向けられた。 「私《わたくし》は贖罪《しょくざい》の証として、手を貫《つらぬ》いたのです。あなたも、神の前で人は皆平等であるべきなのはわかりますね? ですから……次はあなたの番でしてよ」  りん――と澄んだ音が響き、針先が頭上から大和を襲う。右足を一歩引き、軍刀を担ぎ上げるようにして針を弾いた大和は、もう一方の針が脇腹へと突き刺さるのを紙一重でかわし、刀を薙《な》いだ。 「それはあなたが勝手に決めた順番でしょう! ぼくにはそれを守る理由がない」 「神に背《そむ》くことは罪なのですよ」  風をきる音、そして鈴の音。ファーチャの武器は、両手に握られた三十センチほどの針である。少なくとも大和には、その認識があった。  しかし今、鈴の音は同時に八方向で鳴っていた。咄嗟《とっさ》に飛び退き大きく身をかわした大和であったが、右腕と左|腿《もも》には大きな傷が出来ている。そしてまた、今度は十以上の鈴の音が大和を襲った。  体中にいくつもの傷を受けていた。ファーチャの針はその手から弾丸のように放たれ、袖口から新しい針が姿を現す。  鈴の音が鳴るたびに、大和の傷は増えていった。なんとか致命傷《ちめいしょう》を避け続けていた大和であったが、ついに針の一本が左の二の腕に突き刺さる。 「ぐっ……うっ!」  絞り出すような大和のうめき声を聞いて、ファーチャは攻撃の手を止め、口角を上げた。  大和は膝《ひざ》をつき、ファーチャは銀糸《ぎんし》の一つ目でそれを見下ろしている。 「これは……罰《ばつ》。そう……神に背《そむ》いた罰《ばつ》なのですよ」  彼女の両手に、六本の針が握られた。ファーチャの面《おもて》は天へと向けられ、救いを求めるように腕が広がる。唇が祈りの言葉をつぶやいた。  刹那、両腕が交差する。指先から放たれた銀の針は、糸を引き、大和を襲う。  迫りくる美しい白金《しろがね》の死を、大和は見つめた。  紅《あか》く。大和の左目が炎を纏《まと》う。  次の瞬間、炎は宙に渦巻《うずま》き、空間に凝《こご》った。

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