『ユウコ』が遺したものの中で、私が一番心惹かれたのは教科書であった。  何しろ子供という存在が失われて久しいのだから、教育制度というものは残っていない。それでも、何度も教科書を広げてはそこに書かれた文字をなぞる私を見て、父は言った。 「勉強、好きか?」 「うん、好き」  私の答えにも、寡黙な父はただ頷いただけで、特に何かを語ったりはしなかった。しかし次の日の朝、食卓の上にノートが広げておいてあった。  ノートは青いインクでマス目を印刷した『漢字練習帳』というもので、父はその一段目に見本の文字を書きこんでくれたのだ。 「あらあら、書きとりね」  それを見た母が、見本と同じ文字をぎっしりノートの書きこむ方法を教えてくれた。  もう一冊、こちらは簡単な足し算をぎっしりと書き込んであったが、これも母が昼の間に解き方を教えてくれた。  こうして父が出した宿題を私が解き、それに母が丸を付けてくれるという日課が出来上がった。  私は毎日楽しく勉強しているだけだったが、父母にはきっと負担だったに違いない。父は朝早く起きて畑仕事の前にノートを作ってくれるのだし、母も昼間の家事の時間を削って私の相手をしてくれたのだ。それでも父母は、これが手間だとも大変だとも、一度として言わなかった。  こうして私は文字を覚え、計算を覚えた。  私が一通り文字を覚えると、父は週に一回、畑仕事を休みにして私を図書館に連れていくようになった。ガラス張りの建物は人が訪れなくなって久しいが、まだ朽ちてはおらず、書架にはぎっしりと本が並べられていた。  父と私はドアをこじ開けてこの建物の中に潜り込み、それぞれに好きな本を選んで日に焼けたソファに並んで座る。  寡黙な父には読者がよく似合う。  読書に疲れて目をあげると、すぐ隣に父がいる。私は少し前のめりに浅く腰掛けた姿勢で、黙って本を読む父の姿が好きだった。  私は父の姿を見ると安心して、再び自分の手元の本に目を落とす。そうしていろんな物語や、美しい図鑑のページをめくって、無言のまま1日を過ごす。そんな静かな日々を、私はこよなく愛していた。  母はそんな私を見て、「ユウコはお父さんにそっくりねえ」と笑ったものだ。  もちろん私は人工生命体であり、父と遺伝子的関係はないのだから、これはおかしなことである。強いていうならば、父の側について行動パターンを学習した結果だろうか。それでも父に似ていると言われると、なんだか誇らしいような気持ちがして嬉しかった。  この頃のことを思い出すと、なぜか泣きそうになる。悲しいことがあったわけでもないのに、ただ、幸せなだけの静かな思い出なのに……細かな父の仕草や、何気ない母の言葉を思い出すだけで、鼻の奥にツンとした涙の気配を感じてしまうのだ。  私がこの家に来て六年、日々は驚くほど単調で平和だった。父母は静かな愛情を注いで私を育ててくれた。そうして私は、15歳になった。  その日、父はいつも通りに畑に向かった。テーブルの上に私のための書き取りと計算が用意してあったのもいつも通り。母は、これから洗濯場に持って行くための洗濯物を仕分けていた。  全くすべてがいつも通りに、何事もなくその日がすぎるのだと、私は信じていた。

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この作品の評価

272pt

人工生命体の回想記のかたちをとった人類滅亡SFですが、最後まで優しく希望にあふれた物語でもありました。同じ世界観で、街での別の家族のお話なんかもあれば読んでみたいなと思いました。

2019.06.02 14:16

竹村いすず

1

 静かな終末が織りなす、地球におこった悲劇の答え。人類が塩となり人工生命体が次世代を継ぐことは、地球が、もしくは神などと呼ばれる存在が人間を見限ったからだとふと思ったが、主人公の少女が得た「父と母の思い出」は決して過酷なものではなかった。  これは悲劇じゃない、始まりの物語なのだと、老いた「両親」が死にゆく様を見て、ラストの子供たちへと与える愛情を見て、そう思いました。この答えは、限りなく愛おしい。  物静かな文体と流れ行く世界の描写は一貫しておりラストシーンまで静かに読者へとイメージを運んでくれる。なだらかな事の出来事は少女を通じてさざ波のように届いた。それは次の一行を追うたびに悲しい出来事が待っているかもしれない、と思っていても、この世界観ならどうなるだろうと興味を持つ。そして待っていた出来事はしんみりと、しかし辛気くさくなく静寂さを持って読者へと届いた。  素敵な物語でした。願わくば、第二第三と続く、星を継いだ新たな生命たちが幸せであらんことを、強く思います。

2019.03.09 19:48

柴見流一郎

3

少しずつ「想い」を獲得するその視点に胸が苦しくなるほどのいとおしさが芽生えてきます。 丁寧に丁寧に語られていく程に、その想いの強さに切なさがこぼれます。

2019.03.02 10:58

玉藻稲荷

3

美しい物語です。 そして文体も滑らかで、とても読みやすく、例えば中学生などの小説を読み始めるような子に勧めたくなりました。 まだ、2話の時点ですが、すでに物語全体を支配する物悲しい雰囲気と、それをシレっと滑り込ませてくる過去形の使い方。 とても心地よかったです。 情景描写はほのぼのとした印象を受けるのに、しっかり想像してみると、あまりに過酷で残酷な表情を見せるところが、すごく素敵です。 チグハグしたピースを補完するために、脳内で「ああだろうか、こうだろうか」と想像すると、文章内に散りばめられた、確かなリアルな描写がスパイスのようにゾッとさせるのです。 フワっとしたところから、ふと戻れないところにいるのを気付く、底の深い海のような小説です。塩の柱というファンタジックな単語が、2話にして瞬間にリアルな現象に昇華しているのです。 大変美味しゅうございました。

2019.03.01 01:16

朝倉 ぷらす

3

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