一九二五年 五月二日 果穂子

《突如|夕暮《ゆふぐれ》の風がハタハタと強まつて昱子姉様の長い御髪を煽つたので其れが姉様のお顔に被さつて、お口以外の殆どを覆《おほ》つた。 其の時お笑ひになつた昱子姉様の金魚みたゐに紅ひくちびるの色だけ、やけに憶えてゐる──》 近くの尋常小学校から聞こえてくる子供達の声が近頃殊に賑やかになってきた。 新年度を迎えて一月が経ち、新しく入学して来たちいさい子達も学校生活にだいぶん慣れて来たのだろう。慣らしの期間もそろそろ終わって、学習も本格的に始まったようだった。 子供達の声は心地好い。純粋で生命力に溢れていて愛らしい。 秋彦も、それは愛らしかった。幼い子は幼い程、純粋な命のかたまりだ。只ひたすら、生きることだけ。大きな声で泣いたり笑ったり拒んだり。求めて求めて、自分に必要なことをその場でそのまま要求してくる。そして誰をも疑わない。見るもの触れるもの聞くもの、全部を吸収しようとするのだ。強く握ったら皮が破けてしまうのではないかと思うほど柔らかくて瑞々しい手であらゆるものを触り、隙あらば口に入れようとさえする。その行動に乳母達は手を焼いていたけれど。 秋彦は果穂子の義弟《おとうと》だったけれど、環様はそうは見なしておられないようだった。だからあまり表立っては秋彦と接触することは出来ず、それが心残りだと時折思う。 お邸を出た日、秋彦は数えで三つの年だった。あれから一年経っているのでもう四つになっているはずだ。話せる言葉もさぞかし増えたことだろう。やがてここに通う子達のように秋彦も一年生になって、元気に校庭を駆け回ったり、大きな声でお返事をしたり、歌ったりすることだろう。 唱歌の授業なのか、風に乗ってオルガンの音色と共に子供達の合唱が聴こえてくる。澄んだソプラノの声音から察するに、高学年の子供達が歌っているようだった。小さい子達が『かたつむり』や『牛若丸』を思い思いに歌う声も微笑ましいが、音程がしっかりとしてぶれなくなり、歌い方がなってきた綺麗な声は、聴いていて心が洗われるようだ。果穂子の知らない、穏やかな旋律に乗せて流れるように歌詞が紡がれる。何と歌っているのか聴き取ろうとするけれど、室内では僅かに声が篭って分からない。学校は道を挟んでほぼ隣という至近距離だから、庭に出たら聴き取れるかも知れない。そう思い付いて縁側に出、置いてある履物を引っ掛けようとすると、そこで奥からテイの声が飛んできた。 「お嬢様、じきお昼ですからお池をご覧になるのはその後になさいませ」 「いいえ、そうじゃなくて」 果穂子がそう云っている内に間が悪く唱歌は終わり、歌声は途絶えていた。 なんとなく名残惜しく、テイに内緒でこっそり庭に出て沙羅の木に寄りかかる。珍しく早く咲いたその花弁のぬめやかな裏側の感触を味わってからそっと戻った。今日は土曜。学校は午後半休である。昱子も此処へ早くに来てくれるに違いないが、果穂子は今日こそ彼女に伝えねばならないと思っていることがあった。仕方のないことだが、心苦しい。彼女は納得してくれるだろうか。 * 「毎日ここに閉じ籠ってばかりなんて退屈ではなくて? 」 午後一番、玄関の引き戸を開けるなり挨拶もそこそこに勢いよく昱子は云った。そうしてつかつか進んで息をつく間もなく家に上がる。けれども忘れずにきちんと履き物を揃えるところなぞは、いかにも育ちの良いお嬢様らしい。 「昱子姉様は、そんなに毎日いらっして大丈夫なの」 果穂子の言葉に、昱子は振り向く。眼をまるく見開いて、それからひとつ瞬きをした。 「大丈夫って? なにが」 「だから、そうね……。わたくしは昱子姉様が来て下さればそれだけ嬉しいわ。でも、進学なさったばかりなのに。新しいお友達も出来るでしょう? わたくしに構ってばかりでは昱子姉様の世界が狭まってしまうのではなくて」 昱子はなんだという風に息を漏らして立ち上がった。 「大丈夫に決まっているわ」 「それと、」 「なあに」 「知っているの。わたくしにあまり関わらないように高篠のおじさまに云われているんでしょう」 昱子の評判に傷が付かないように、それは高篠家なりの娘に対する配慮だろう。決して果穂子が憎くてそう云っている訳ではない。分かっていた。だから果穂子は大人にならなければならない。 けれどそれを聞いて昱子はけらけら笑いだした。 「そんなの! 」 笑いながら昱子は勝ち気に云い捨てる。 「云わせておけば宜しいの。素直に全部その通りにしていてご覧なさい、終いにはなにも出来なくなってしまうわ!」 何が正しいかなんて、結局は誰にもわからないものよ、昱子は饒舌に続ける。 「お父様の考えている事だって、結局は見た目よ。世間体よ。わたくしを守るようでいて、わたくしから代わりの利かない大切なお友達を失わせようとするの」 あなたが逆の立場だったら大人しく従うの、と昱子が問うので果穂子は慌ててかぶりを振った。 「でしょう? 」 昱子は得意気ににやりとする。敵わない、と思った。これほど美しく、聡明で、しかも自分を確り貫く強さを持った新しい時代の女性。 「それでね、」 けれど次の瞬間昱子の表情は途端に幼くなった。 「今からわたくしと街へ出ない? 今日はそのつもりで来たの」 「え? 」 「二人でお買い物するのよ。果穂子さんに似合うリボンを見繕ってあげる」 今度は果穂子の方が眼を丸くする。 「今から? 」 「そうよ」 「だって、お金は」 「大丈夫よ。お父様に、新学期だし、お友達と女の子同士だけのパーティをやるから、贈り物を買いたいと云ったの」 澄まして昱子は答えるので果穂子は呆気に取られる。 「嘘吐いたの? 」 「あら、嘘だと思われる? 」 昱子はくすくす笑いながら飛び付いてきて、その勢いのまま果穂子を玄関へ押し出した。 「嘘ではなくてよ! 」 表へ出ると早く、と急かして昱子は走り出した。 「今日はパーティのような一日にするのよ! 」 パーティ。鈴を転がすような昱子の声で発せられるその言葉は、本邸にいた時嫌という程聞き慣れていたのに、それとは全く別物のように果穂子の耳に魅惑的に響いた。 騒ぎを聞いて慌ててテイが飛び出してくる。 「あら、まあ、一体どうなさったというのです、何処へ行きなさるのですか」 「ちょっと街まで。果穂子さんとお買い物をして来るわ」 数寄屋《すきや》門のところで少し足を止めて無邪気に昱子は叫び、テイを慌てさせる。 「何を仰られるのです、旦那様に叱られてしまいます。お戻りなさいませ! 」 「大丈夫よ!大丈夫。日が暮れる頃には戻って来るんですもの」 「昱子お嬢様! 」 「行って参ります! 」 昱子は花のような笑顔をテイに向けてから、走りましょ、と悪戯っぽく囁いて果穂子の手を強く引いた。後ろに慌てふためくテイが遠のいて、前方では昱子のワンピースの白い襟が風にひらめく。帽子のつばから覗くそのうなじが儚げで、外の溢れる緑が目に眩しくて、果穂子はなぜだか胸が一杯になる。目に見えるもの総てが永遠に続くものみたいにスロウ・モーションに映った。不良少女になってしまったわね、と昱子が可笑しそうに笑う。果穂子も一緒になって笑って、笑って、二人できゃあきゃあ騒いだ。 「パーティなのだもの、いろんなお店を見て回りましょ、それからミルクホールに入って、あと、記念写真も撮らなくっちゃ── 」 はしゃいだ声で互いに途切れることなく話し続けて、間もなく少しひらけた場所に出た。多くの人が行き交い、音で溢れている。果穂子は呆気に取られる。勿論、賑やかな場所へ行くのは初めてでは無かったし、父に何度か百貨店に連れて行ってもらったこともある。けれど、自分の足ひとつで保護者もなしに街に出るのはこれが初めてだった。思わずきょろきょろと辺りを見回していると、ねえ、と昱子が果穂子の肩に触れる。あれ見て、と彼女が指差したのは市電だった。四角いフォルムが美しい。 「市電ってお乗りになった事ある? 」 「ないわ」 移動はいつも運転手付きの車だった。それ以外で外に出してもらったことはない。かあさまと暮らしたちいさい頃は徒歩だったが、精々家の周りの商店や銭湯、神社へ出向くくらいだったように思う。昱子姉様はあるの、と問うと、彼女も首を横振りした。 「実はわたくしも無いの。あれに乗って、一番開けたところに行ってみないこと? 」 「上手く乗れるかしら」 「だからわくわくするのよ」 昱子の果敢な性格は果穂子には無いもので、いつも新鮮な思いがする。彼女は果穂子を新しい世界へと導き、新しい考え方を教えてくれる。 果穂子たちが市電を降りると、他の多くの乗客もその停留所でぞろぞろ降りてきた。この辺りがいちばん栄えているからでしょう、と昱子は云う。 「駅もあるから余計そうなのね。──さあ、」 リボンよ、と果穂子の手を引きズラリと商店の建ち並ぶ方に向かって歩き出した。 「あなた、一本もリボンをお持ちになっていらっしゃらないでしょう」 「そうだけれど──」 佐伯家では、リボンは許可されていなかった。あれは派手で下品に見えると云う父の考えによるものだ。密かに果穂子は憧れていたのだけれど。 「──でも、わたくしに似合うかしら」 少し不安になって昱子にくっ付いて問いかける。昱子はにっこりと顔を向けた。 「屹度《きっと》似合うわ。以前からずっとそう思っていたの」 果穂子さんはお顔つきが嫋《たお》やかだから迚も華やかになるわ、と悪戯っぽく果穂子の腕にしがみつく。 「ほんとう? 」 「ほんとうよ」 昱子が足を止めたのは、大きな円い時計の嵌め込まれた白いビルヂングの前だった。 中は、別世界だった。広い空間がいくつかの分類に仕切られ、呉服関係の品の他に最新型の洒落た時計や洋傘、ハンカチーフなど モダンな品物が揃っており思わず目移りしてしまう。あちこちをくるくると眺めていると、来て、と昱子が手招きする。行ってみるとその光景に息を呑んだ。 何処《どこ》も彼処《かしこ》も リボン、リボン、リボン……。 ガラスのショウ・ウィンドウに並べられた目の醒めるような赤や青、矢絣柄、花柄、格子柄。縮緬《ちりめん》や艶々した滑らかな素材のもの、しっかりした印象の綾織り──。 夢みたい、と思わず呟く。そうでしょう、パーティだものと昱子。 「如何なさいましょうか」 店の若い女性が上品に微笑んだ。 「何かお勧めはあるのかしら」 昱子は物怖じすることなく慣れた様子で女性に尋ねる。 「やっぱりいちばん人気のあるのは無地のもので御座いましょうか、あんまり奇抜なものは合わせるのも難しくなりますでしょう? 無地のものは何と云っても赤いのが人気ですし、柄物でしたらこちらとこちらと……」 女性は滑らかに説明しながら五種類ほどをガラス・ケエスの中から取り出した。果穂子はただ事の成り行きを見守って、出されたリボンの柄を示されるまま見つめる。 「果穂子さんは何《ど》れか気に入ったものがあって」 「えっ」 言われて我に返る。ふふ、と昱子は笑った。 「あなたのリボンよ」 「みんな素敵で、見惚れてしまって……。自分では分からないから、わたくしに似合うのを選んでいただけない? 」 「そういえばわたくし、最初にそのように云ったわね」 良いわ、と昱子は張り切った風にズラリと並んだリボンを眺めた。 「少し、試してみても宜しいかしら」 「もちろんどうぞ。鏡も御用意してございますので」 果穂子に手鏡を持たせて、昱子は次々とリボンを変えては吟味していく。 ああでもない、こうでもないと云いながら最終的に彼女が手に取ったのは、張りと光沢のある絹の幅広リボンだった。赤を基調にした縞柄。黄や藍が良いアクセントになっている。 「縞がいいわ。華やかなのに凛としていて果穂子さんみたい。素敵」 どう、と果穂子に訊いてくる。 「素敵──」 綺麗な柄の憧れのリボン。これを掛けた果穂子はどのように見えるだろう。昱子のようにモダンな様子になれるだろうか。 「ではそれにして頂戴。二つ頂くわ」 わたくしとのお揃いにしましょう、と何故かこっそり昱子は果穂子に耳打ちした。 明るい青い空の下《もと》、爽やかなそよ風が心地好い。空の色さへ陽気です、時は楽しい五月です──ポオル・フォルの詩が頭の中で駆け巡る。賑やかな街の喧騒の中、果穂子の前を颯爽と昱子が歩く。ピンと伸びた背筋のラインが凛として、その背中で豊かな長い髪が緩く波打って揺れる。頭のてっぺんには先程お揃いで買った縞のリボン。 リボンを買って直ぐに、二人で髪に掛けてみることにした。昱子は被っていたクロッシェ帽を脱いで、お下げ髪を解く。途端に髪がふわりと拡がった。外国人とも日本人ともつかないエキゾチックなウェーブが美しい。果穂子はその横髪だけまたお下げに編み直して頭の後ろに纏め、仕上げにリボンを掛けてあげた。 一方果穂子の髪はひさし髪に固めてあったので、店の女性に頼んで結んだリボンに櫛をおまけで軽く縫い付けてもらった。髪に挿すとまるで掛けてあるように見える。 先を歩く昱子が自信に満ちた笑みで振り向いた。 「あなた、そのリボンが本当にお似合いね。わたくしの思った通り」 「ありがとう。ずっと大切にします」 リボンひとつで世界が全然違って見えるのは如何したことだろう。如何してこんなに浮き足立つのだろう。 「写真、出来上がるのが楽しみね」 果穂子は微笑んで応える。リボンを買った同じビルヂング内の三階にあった写真館で、二人の記念写真を撮った。頭の上の昱子とお揃いのリボンのことを思って微かに笑った時、シャッターが押された。 市電から降りても、まだ日が暮れるには早かった。二人で別荘近くの丘の上まで行ってみる。青々した柔らかそうな草が一面に生えていた。風はそよ風から夕暮れの強めの風に変わってきており、二人の髪やら袖やらを大きく煽る。一休みしようと草の上に腰掛けると、先程まであちこち歩き回っていた街がいっぺんに見渡せた。市電が子供の玩具みたいにことこと移動している。 「ねえ」 昱子は小《ち》さい少女のように屈託無く話し掛ける。 「あなた、知っていらっしゃる?」 「存じません」 果穂子が済まして応じると彼女は頬を膨らませる。 「まだ何も云っていないのに」 じゃあ教えて、と目を上げると昱子は得意げな顔になってこう切り出した。 「その昔、この辺り一帯はただの荒れ野だったのですって。たくさん木が生い茂っていて、雉やら狸やらが住んでいたのですって」 「そうなの? 」 果穂子はあらためて眼下の街を見下ろした。今の繁栄した街並みからはとても想像がつかない。 「昔の人だって、きっとわたくし達とそう変わらないわ。おんなじお日さまの光を浴びて、おんなじ月の光を見て、おんなじ地面の上で暮らして。だけど街は様変わりして人だけがくるくると入れ替わるのね。それが不思議なことに思えてくるの」 昱子は街から目を逸らさずにそんなことを云う。濃くて長い睫毛が細い針金みたいに一直線に伸びている。 「そう考えるとこうして果穂子さんと過ごしている毎日が、とても貴重なものに思えてくるの」 夕方の風に煽られて、普段勝ち気な昱子が不意に夢幻的に見えてくる。 「何か──あったの」 「縁談がね、来たの」 唐突な告白に果穂子の心臓が鳴る。昱子のような美人なら当然あっておかしくない話だ。何故今迄思い至らなかったのだろう。 「──お嫁に行かれるの? 」 合点がいった。急に果穂子を街へ誘ったり、リボンをお揃いにしたり、記念写真を撮ったり。今日のパーティは最後の思い出作りだったのだろうか。声が掠れる。 「お相手はどんな方? 優しそうな方? 」 「知らないわ。碌《ろく》に聞きもしなかったから」 「え? 」 結局ね、直ぐに断ったの、かなり強引に蹴ってしまったわ、と漸く街から目を離して此方に顔を向けた。果穂子は深い安堵とともに胸を撫で下ろす。 「ごめんなさい。不謹慎なのだけれど、ほっとしてしまったわ」 「いいの」 そう云って笑う昱子は、やはり誰もが見惚れてしまうほど眩しく麗しい。 「結婚はしたくない。このままがいいわ。どこかのお家に縛られるなんて嫌。果穂子さんに会えなくなるのはもっと嫌…… 」 呪文のようにうっそりと呟き、昱子は目を閉じる。 「神は総てのものをその時に適い美しく造られり。永遠を想う心をさえ人に与え給う。されど決して人はすべてを知り尽くし得ず── 」 出し抜けに昱子は詩か何かの暗唱を始め、あなたご存じ、と果穂子に振った。 「いいえ」 そう、と昱子は微笑み、あのね、と続ける。 「ずっとこのままが続けばいいって気持ち、神様がお与えになったのよ。だから永遠を願うことは我儘なんかではないの。歳を取りたくないって云う気持ちもよ」 昱子は立ち上がって二歩三歩と歩く。日が傾き始め、更に風が出てくる。 「終わりがないって、どういうものか想像出来る? 」 昱子は風で乱れる髪を押さえてあどけなく振り向いた。 「いいえ」 果穂子はかぶりを振る。 「じゃあ始まりがないっていうのは? 」 正直、果穂子はどちらの問いにも興味はなかった。ただ、美しい、と只管思っていた。この景色も、昱子も、今この瞬間も。 ──このまま時が止まったら良いのだわ。 あの日の夕暮れ、笑った昱子のくちびるの色だけ、やけに憶えている。

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