湯屋からからんからんと下駄を鳴らし、女が足早に長屋に戻っていく。  秋はもう終わりを迎え、気の早い夜の闇はもうすぐそこまで迫って来ている。夕焼けはほんのり橙に辺りを照らし、女の影がやたら長くてほっそりとしていた。  長屋の木戸をくぐればいい匂いが辺りに立ち込めていた。  そこは厠が近いから常に少しだけ臭うのだが、今日はそれよりも味噌のかぐわしい香りが勝っていた。匂いにつられて鼻を上げると、胸を押し上げるほど大きく息を吸いこんでうっとりとした顔つきになった。  これは鯉こく。間違いない。  淡く上気した赤い頬が更に色を増して、上機嫌で長屋の障子戸を開けた。 「あんた、今日は早かったんじゃないかい?」  声を掛けられ、鍋の前でお玉を持ったまま、女の亭主が顔を上げた。 「ああ、お菜の売れ行きがよくって、昼餉時には手が空いたもんで鯉を釣って来た」  女は亭主の言葉に顔を曇らせた。 「あんた、川へ行ったのかい?」 「ああ、日銭は稼いだし、おめぇは鯉が好きだろ」  ああ。と、女は空返事をしながら手にしていた手拭いに今気がついた様に手元を見てから、それをあちこち和紙《かみ》で修繕してある屏風にひょいと引っかけた。  出来上がった鯉こくを亭主が二人分椀によそって運んできたので、膳を出し、夕餉とする。  湯気が上がる鯉こく。  茅色の味噌の汁の中に、ぶつ切りの鈍色になった鯉が浸かっている。そして、味噌にうっすら染められた豆腐と青さを残す葱。  嬉々として箸とお椀を持ってその中を覗き込んだ女に亭主が言う。 「食う前に行灯つけろな。暗くてかなわん」 「あんた立ってるんだからやってちょうだいよ」  亭主は感情の籠らない目で女を一瞥してから、首を振ってかまどから火をとって来た。亭主が屈みこみ行灯に火を入れると、魚油から立ち昇る生臭い臭いが狭い長屋の部屋を埋めた。 「ほらほら、明るくなったしあんたも座った座った。せっかくあんたの作ってくれた鯉こくが冷えちまうよ」  好物を前にして、どっしりと腰を据えたまま梃子でも動かぬ構えの女に、亭主は頷いて膳の前に胡坐をかいた。  行灯が灯す明かりに浮かび上がる二人。申し合わせたように椀に口を付けて、濃い目に味をつけた汁をずずずっと吸い上げた。 「あんた聞いたかい? 庄吉さん所のおとくさん。子供が出来たってさぁ」  女は豆腐をそっと箸で掴み上げながら、亭主の顔をちらっと見た。亭主の方は椀の中身を見ていて女が見ているのに気がついてはいない。 「ここの所、子供殺しが流行っているだろう? どうなんだろうね、心配じゃないのかね? つっても、出来たもんは産むんだろうけどさ」  男は女の話を聞いているのか居ないのか、黙々と箸を進めていく。 「怖いことだよねぇ。この前、死体が出たのは太刀川だって言うじゃないか。ここからだってみんな魚を捕りに行くだろう? やだやだ……。ああでも、今頃なら紅葉が綺麗だねぇ。常盤緑から蘭茶になって、んで紅葉色。今はもうすっかり紅葉色一色だ」  女はぱくりと豆腐を口に入れてからそれをもぐもぐと咀嚼しつつ、また無表情の亭主を見る。  元々口数は多い方ではないし、優しいけれど、笑ったりすることなどはどこかに置いてきちまったような亭主だった。話しをするのはもっぱら女だと決まっていた。そして今日も黙ったまま自ら作った鯉こくを食している。幾分疲れた面持ちな気がしたけれど、何分行灯の刻《とき》、薄暗くってはっきり見ることは出来ない。 「あんた、川釣りに行くなら私も誘ってちょうだいよ。あんたと一緒に紅葉を見たいと思ってたんだ」  男はごくっと口の中のものを飲み込んで、口元が自然と緩み小さく口を開けた。 「そうかい」  ぼそりと短く返事を返した。

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