戴冠、或いは暁を待つ | 序章:この物語の成り立ちについて
かなた

00

 真新しい本のインクの匂いが好きだ。だから、本を読むのは嫌いではない。  読書が好きかと問われれば否と答えるが、新しい本を開く瞬間のわくわくした気持ちは好きだ。――そんな僕の手で開かれたのは、編纂作業と発行が終わったばかりの新版の史書。  旧《ふる》い神話から始まるその冒頭は、以下のように。  かつて、この国には一頭の獣があった。鱗と毛皮、羽毛と角、内外の骨――生まれたときから定まった姿と引き換えに、欲しいものを欲しいままに持った不定形の獣である。それに対して付けられた名は、持たざるものを讃える|偉大なるかたちの獣《アデライード》。  |僕たち《ヒト》は彼より践祚《せんそ》を受けるにあたり、いずれみずからの生をその一夜の夢へと変えることを対価とした。ゆえに彼女はこの北の地へ己の眸《め》となる|子どもたち《獣》を解き放ち、みずからは形而上の最果てで眠りに就いた。  記述の仔細に多少の差異はあるが、おおむねの内容はこれに尽きる。これを真偽もわからぬ建国神話と嗤《わら》うのなら、僕らもまた神話と地続きの時間を生きる嘲笑の的だ。  その証拠に、次行から始まる立憲《りつけん》の記述にさえも、アデライードという〈竜〉の名は大真面目に綴られている。  なにせ彼女は我が国の真のあるじにして、隣国にさえその名を轟かす異形の怪物だ。僕らの側がうっかり敬意を忘れようものなら、いかなる災厄が降りかかるともしれない。  その結果もまた史書のうちに綴られているのだから、原因である彼に関して書かないなどというのは、馬鹿の所業と言えるだろう。しかしながらこれらの事実を綴った文章は、今年十七になる僕にしてみれば、もはや飽きるほどに読み込んだ代物である。  ゆえに此度《こたび》、膝上の真新しい本を読むにあたって、その辺の頁はばっさりと切り捨てた。  そうして読み始めたのは、去年の秋から年明けのあたりから。本全体でいうなら後半も後半、ほんの数頁。  そこに記載された主な内容は、年を超えられなかった王の病状と崩御、それから彼の長男の立太子ついて。あとはそれに伴い、摂政位《せつしようい》を得た王妃による配剤の幾ばくか。徹底的に余計な感情を削ぎ落とされた文章は、何度|手繰《たぐ》ろうとも実感の湧かない代物だった。  読み進むうちに活字を追うことにも飽いて、僕は窓の外を見る。  硝子の向こう、ましろの雪を残す街並みには、黄昏が辰砂《しんしや》色の薄絹《うすぎぬ》をかけていた。ならばここから先、夜の帳が降りるのは早い。  僕はおとなしく本を閉じて抱え、窓辺の椅子から立ち上がった。応じるように、踏みしめた床がみしりと音を立てる。  その音が聞こえるという事実を噛み締めながら、僕は耳を澄ませた。つい先ほどまでは絶え間ない鎚の音がここまで聞こえていたけれど、それもいつの間にか消えている。  ということは、僕が今まで居座っていたこの場所――名前もない鍛冶工房はそろそろ店じまいをする刻限《こくげん》だ。これ以上長居をするのも申し訳がない。  そんなことを考えながら、椅子の背にかけてあった外套に袖を通して廊下へ出る。  人気《ひとけ》のなかったはずのそこは、意外なほどに寒くはなかった。壁を隔てた向こうにある鍛冶場の炉が、まだ煌々《こうこう》と燃え盛っているせいだろう。  炉を守る老爺《ろうや》の巌《いわお》じみた顔を思い出しながら、足音を殺して廊下を歩く。  ――そんな道行《みちゆき》のさなか、不意に廊下を覗くひとの頭がひとつ。応じて目を丸める僕のほうを見た顔は、鼻筋を黒く染めた煤さえなければえらく険しく見える。 「ルカ」  僕の名前を呼ぶ声もまた、顔のとおりに低く太く、よく通る声だった。まるで虎か獅子が唸るようなという表現も、彼に限ってはあながち間違いとも言い切れない。 「そろそろ迎えに行こうと思って来たんだけど……もう帰るところ?」  ただし言葉の調子は軽く、若さというものを感じさせる。しかしながらけっして幼くなり切らないそれは、ちょうど僕と同年代の若い男の声で間違いない。 「うん、もう帰る。今日もありがとうね」  僕がそう口にすると、扉の向こうから顔を覗かせた彼は、ひとつ鷹揚にうなずいた。 「なら送って行くよ。俺、ちょうどこれから買い物で外に行くから」  すぐ間近に近づいて見上げた彼のまなこは、この夕暮れの中にあってなお、白昼に見るのと遜色の少ない色をしている。それはたとえるならば紫《し》金《きん》石《せき》、あるいは星を戴く夜空の色。  ハイロはそういう色の瞳をした竜の子孫――一般的には〈獣〉などと呼称される生き物である。ヒトの形に化ける前は、虎や豹によく似た肉食獣の姿をしているらしい。ゆえに彼の瞳はわずかなりとも光があれば、おのずときらきら光って見えるのだ。  もっともそう言う僕は、実のところ彼の本性にお目にかかったことはないのだけれど。 「買い物っていうと……」 「木炭。近ごろは運んでもらうと運賃が相当高くつくからね」  ハイロはわずかに肩をすくめた。対する僕は曖昧《あいまい》に笑い、 「なら、お言葉に甘えて」  とだけ返した。  そうして僕らは連れ立って扉を潜る。鍛冶場へ続く廊下に満ちているのは、眩暈《めまい》をもよおすほどの熱気だった。ちょうど扉を境にし、寒気と暖気が渦を巻いているのがわかる。その風の流れに毛先を遊ばせながら、僕は習慣として鍛冶場のほうへ顔を出した。  ただし廊下の木床から境を超えて、砂敷きの空間に降りることはしない。  そんなことをしてしまったら最後、この工房を訪れる機会など、二度と巡って来ないと確信しているからだ。 「ラリューシャ」  なので少しだけ声を張って、鍛冶場の中へと呼びかける。返答のかわりに振り返ったひとの姿形は、ハイロと比べてずいぶんな小柄だった。赤々と燃える火の影は落ち行く陽の光と異なり、生き物のようにのたうつ――それに照らされた老人の顔は、いつ何時《なんどき》たりとも変わらないしかめ面。 「今日も遅くまでありがとう。お邪魔しました」  投げ返される返答もまた、だいたい似たようなものだ。  ラリューシャ老の言葉はおおむね母音のみで構成されている。唸りよりも不機嫌そうな声に怒りの色がないことを悟って、僕はハイロのほうを見た。彼は目線で工房の出口を示す。 「親方がいつも悪いね」  促されるまま出た工房の外において、ハイロの謝罪は白く色づいた。彼が師匠について謝るときは、いつもこうだ。見上げるほどの巨躯《きよく》を誇るくせに、彼はけっこう繊細である。師についてなにか謝るときは、必ずその耳のない工房の外で口を開く。  外套の大きなボタンを順繰りに留めながら、僕は緩く首を横に振った。  気にしないで、という言葉を声にはしない。けれどもハイロはひとつ大きく頭を上下させて見せ、緩やかな足取りで工房の前の斜面を登り始めた。  その前を先導するような形で、僕も一歩一歩慎重に坂道を登って行くことにする。先日の雪で濡れた石造りの坂は、どうしたって滑りやすいからだ。もし万が一ハイロが前方で転んで落ちて来たら、ふたり揃って坂の下まで一直線――ということも充分にあり得る。  なにせ〈壁の内《トゥーリーズ》〉は、元よりなだらかな丘陵《きゆうりよう》に這うように存在する街だ。傾斜のない場所は少なく、滑り出せば止まる術もまた少ない。だからハイロは僕とともに斜面の上を目指すとき、かならず二歩、後ろに退いたあたりを定位置にする。それが僕らの不文律だった。  これは彼なりの優しさなのだろうと思うけれど、当人はそれを口にしない。だから僕もまたあえて謝意を告げることはせず、いつもどおりに坂を登る。 「そういえば」  背後でハイロが声を上げたのに合わせて、僕は石畳を眺めていた目線を持ち上げる。 「街にはもうだいぶ慣れた?」 「……少しだけ」  振り返らずに答える声は襟の布地に当たってくぐもり、いかにも聞き取りづらかろうと思われた。が、僕の背中にはすぐさま、ごろごろと上機嫌な猫が立てるのに似た音が当たる。  それがハイロにとっての笑声《しようせい》であることは、ずいぶん前に知った事実だった。 「王都生まれはみんな揃ってそうやって言うけどさ、はやり?」 「どうだろう。違うと思うんだけどな」  一歩一歩をたしかめるように石畳を踏み締めながら、僕もまた喉を鳴らす。骨を伝って耳へと届く音は、違《たが》うはずもない聞き慣れたヒトの笑い声。  それを聞いて思い出すのは、この斜面を登った先にいるはずのひとのことだ。  彼は僕にとって、後見人ということになっている。そして僕と同じく王都で生まれ、西の果ての街であるトゥーリーズへ越して来たひとでもあった。  ――まぁ少しだけ、と銜《くわ》え煙管《ぎせる》で気持ちの籠らない返答を口にする姿は、かなり容易く想像がつく。そういう男でもある。  佐官位《さかんい》を持つ軍人である彼が治めるこの街は、扇に似た形をしていた。斜面を上り下りする坂道はまっすぐに伸びた扇の骨で、それを束ねる要は丘陵の頂《いただき》。そこになにがあるかと言えば、領主の屋敷と、それに付随する政《まつりごと》のためのもろもろ。あとは少し手前に、すべての通りへと続く広場もあった。  僕らが登って来た〈鍛冶屋通り〉とその広場の境は明確だ。てんでばらばらの石畳が、規則正しく敷き詰められたタイルへと代わる――その境界がそのまま両者の境に等しい。  昼日中ならごった返しているはずの空間には、瓦斯《ガス》灯の支柱の隣に立った小さな姿があるだけだった。それが見慣れた大きさであることを悟り、僕は口許を覆う襟を引き下げる。 「アマリエ」  名前を呼ぶと、影になった姿が動いた。こちらに顔を向け、それから少しのけぞる仕草。  僕に遅れて斜面を登り終えたハイロが、しまった、とひそかな声を上げる。  ほぼ同時に、小さな影は明かりの下からこちらへ駆けて来た。 「今お帰りですか、ルカさま!」  問いかけて来る声は、いとけないばかりの子どもの高さ。  うなずいて返すと、すっかり少女の姿を得た影は、僕の脇から通りを覗き込む。 「それで、そちらはなんです?」 「……彼の見送り」  答えに迷って口を噤んだ僕にかわり、応じたハイロの声の小さなこと。 「では、またお祖父さまのところに行かれていたのですね」  アマリエは姿勢を正し、僕の顔を見上げた。こちらが肩をすくめて見せれば、返って来るのは聞き知った年齢よりずいぶんあくどい笑みである。 「反省しています」  ようやく探し出した言葉は、それだった。  今年のはじめ、古くからの知人を頼ってこの街にやって来た僕には、彼から頼まれた仕事がある。それは街へと繰り出し、市街を見て回ることだった。  いわゆる監査役というやつだが、その実態は市井を見るという勉学の機会を与えられているに過ぎない。それについては、目の前の少女も重々承知の事実である。彼女は僕の後見人でもある旧知――エクリールに仕える侍女見習いなのだから、当然と言えば当然だ。 「こちらも反省しております」  いっぽうでそのように応じたハイロは、ラリューシャ老の鍛冶工房の見習いである。そして彼の親方は、ほかならぬアマリエの祖父でもあった。  よって、この場に集った三者の力関係は大変明確である。まずとにもかくにもアマリエがもっとも強い。続いてぎりぎり《《貴族の落とし子かなにか》》という立場にある僕、最後が鍛冶師見習いのハイロ。だからこそハイロは、アマリエに対して逆らうようなことはしない。 「こちらをお納めいただければご幸甚《こうじん》に存じます」  結果として言葉とともに差し出されたのは、ちょうど紙を折り畳んだだけの、簡単な言伝の手紙にも見える代物だった。ただし、そう見えるというだけのものであることも、僕はよくよく知っている。  なぜならアマリエは字を読むのが達者ではなく、対するハイロもそのあたりの本物の猫に書かせるのと大差ない文字を書くもので。 「よい心がけですね。これなら一度くらいはお目こぼしがあって然《しか》るべきでしょう」  あの折り畳まれた紙片には、本当にちょっとした荷物が挟み込まれている。  そのやりとりが終わるのを見守ってから、僕はハイロへ頭を下げた。  けれども手渡されているものはどこまでも些細な品に過ぎず、アマリエだって、ちょっとした悪戯くらいの気持ちでこういう受け取り方をしているに過ぎない。はじめは面食らったりもしたけれど、そういうものだともう慣れた。 「それと、報奨《ほうしよう》くらいは出してもよいでしょう」  畳まれた紙を開いたアマリエは、そんなことを言う。どうやらお眼鏡に適《かな》ったようだ。  ハイロは大柄な体を丸めるようにして、深々と御辞儀を返した。 「……そういえばこんな時間に、こんなところでどうしたんだ。ひとりか?」  ついで顔を上げた彼の問いかけに対し、アマリエは少し間を空けて首肯した。 「ひとを待っているのです」  僕とハイロは顔を見合わせ、それから瓦斯《ガス》灯の支柱より向もこうにある、領主邸の囲いに目を向けた。正確は、囲いの一角に設けられた小屋を見ようとした。  本来であればそこには見張り役の姿が在るはずなのだが、あるべき姿は見出せない。僕がこの街へ引っ越して来てからこちら、あの小屋は一度たりとも使われたことがないのだ。  なぜかと言えば、灰色の囲いの向こうに見えるべき領主邸の姿が、影も形も存在していないから。辛うじて見えるのは役場と、駐在軍の詰所兼宿舎の屋根の先端だけ。  つまり、見張り小屋を建てて守るべきものだけが、そこに存在していない―― 「危なくない?」  軍人たちの住まいがすぐそこにあるとはいえ、この夕闇の時刻に子どもがひとりで誰かを待つのは、けっして褒められたこととは言えなかった。  トゥーリーズの治安はけっして悪くはないが、それでもひと攫《さら》いくらいは出るかもしれない。特に今様の時期ともあれば、なおさらに。  ――なぜなら今、僕らの国に王はいないのだ。  成人を迎えていない王太子の代わりに政を取り仕切る王妃も、かつての賢妻ぶりが嘘のように鳴りを潜め、近ごろ治世の手腕に翳《かげ》りが見えると言われている。特に王の亡き今に至っては、いたずらに税率を上げたりすることも増えた、ともっぱらの評判だ。結果的に負担のかかった市井《しせい》の治安も大打撃を受けたと評されるのが、近年の我が国の実情である。  だというのに、アマリエはしっかり胸を張ってこう応じた。 「ここトゥーリーズの住人に、ひと攫いなどおりません!」  なにせ彼女の主人は、このトゥーリーズを治めるひとである。彼女の主人に対する信奉は街の治世に対する信奉に等しく、ゆえに彼女はこの街の人間に悪意というものの存在を認めていない。だからこそ僕らは彼女に向かって、待つなとも帰れとも言えなかった。  結果、ふたたび明かりの下へ戻って行くアマリエの背中を追って行く羽目になる。 「それでアマリエは誰を待っているの?」  問うと、瓦斯《ガス》灯の下に立った彼女は小さく肩をすくめた。 「クロイツです」  ハイロが光るまなこを見開いた。首をかしげて意図するところを問えば、 「俺たちの知り合いだよ」  とひと言、彼もまた肩をすくめて見せる。 「……というか、エクリール卿のところの魔術師」 「ふぅん、魔術師……」  魔術師。  それは死後に竜へと仕えることを目標に、現《うつ》し世《よ》にて世界の法を守ることを生業《なりわい》にする者を指す総称だ。  彼らはヒトの身に生まれるが、その才覚と旧い技法でヒトには使えない術を使う。その一端が千里眼や遠耳《とおみみ》。これらはなにぶん便利な術であるから、現世にて彼らを雇う貴族や金持ちも少なくない。エクリールも貴族の嫡男である以上、魔術師のひとりやふたりは雇っていても、なんらおかしな話ではないのだが―― 「どんなひと?」  僕は、古馴染《ふるなじ》みであるエクリールが雇っている魔術師のことを知らなかった。  単にすれ違っていたという話ではなく、正真正銘の初耳だったのである。 「……そうだね、強いて言うなら基本的に放任されているというか……」 「あんな感じです」  小さな手がすいと通りのひとつを指差す。促されるままそちらを見れば、斜面を登って来る白い姿がひとつ。フードを被った姿はヒトではないもののようにも見えたが、歩き方は僕やアマリエとなんら違いがなかった。 「あんな感じもなにも、あれが当人じゃないか」  呆れたように言ってから、ハイロは頭上で手を振る。広場へ踏み込んだ人影の側もそれに気づいてか、軽く片手を持ち上げた。 「どうしたおまえたち、こんな時間に雁首揃えて」  ただし、フードを脱ぐことはしない。  その下にあるのは、動いている光景自体を疑いたくなるような、端正極まりない少女のかんばせ。魔術師《ヒト》の顔であるという事実にさえ猛烈な違和感を覚える、そういう類の。けれども、その顔だけが違和感の原因だと言い切ることに対しても、同様に猛烈な違和感がある。 「今し方会ったところだよ。……例の見張り役は、また暴力沙汰で馘首《くび》にされたのか?」  応じるハイロの声に気負ったふうはない。その事実こそが、両者の――あるいは、アマリエまで含めた三者の親しさを明確に物語っていた。 「違《ちげ》ぇよ。とにもかくにも急ぎで帰って来いって手紙が来た」  彼女は細くしなやかな指でフードの布地を後ろへ引き、順繰りに僕らの姿を眺め見た。そして最後に僕の顔に目を留めると、 「改めて聞くけど、誰よこいつ」  僕が抱いたもうひとつの違和感の大本とも言える、低い声でそう問うた。 「こいつとはなんです!」  にわかに噛み付いたのはアマリエだった。先立っての声は、彼女の高い声音とは比べるべくもない―― 「いや、そうは言うけどおまえ……」  男の声だ。 「とにかくこいつではない! この方とお呼びなさい!」  彼と呼ぶべきか、彼女と呼ぶべきか。とかく目の前の魔術師は、眉間に皺を寄せてハイロを見た。アマリエを構うのは面倒であると、表情ばかりが力強く語って止まない。 「ルカ様はエクリール卿の客人だよ、クロイツ。親戚筋の御方だと聞いている」  そう告げて、ハイロは僕のほうを見た。 「こいつはクロイツ。――先に言ったとおり、エクリール卿が雇った魔術師だ」  どうも、と男の声が言う。続けてうなずくような会釈がひとつ。  対する僕も、同じような仕草を返す。クロイツと呼ばれた魔術師は、そんな僕からすいと目線を外し、尖晶石《せんしようせき》の黒でアマリエを見た。 「で、おまえは雇い主から俺の迎えを頼まれたのか?」 「ちがいます。手紙を見たので、自主的に来てやったのです」  切れ長の目が眇《すが》められて、作りものめいた面が不釣り合いな表情を宿す。その表情から察するに、おそらく言いたいことは山とあったに違いない。  けれども彼は、そうかと短く応えただけだった。それを聞いた僕は小言のひとつも言うべく口を開きかけたが、続く言葉を奪うに足るなにかがそこにはあった。  ハイロもまた二度三度と口を開閉したが、結局はなにを口にすることもない。彼は結局のところ、頭上で手を振りながら通りのひとつへ去って行った。僕のほうもまたアマリエとふたり、手を振り返してその姿を見送る。  大柄な獣の姿がすっかり見えなくなるまで、しっかりと。  その姿が斜面の向こうへ消え去ってから、クロイツは改めて口を開いた。 「大将には会えるか?」 「ええ。さきほどお会いして、ルカさまをお呼びするようにと仰《おお》せつかりました」 「そいつはよかった。喋れるんなら御の字だ」  笑って、彼はふたたび僕のほうを見た。正しく表すならば、見上げた。  背筋はしゃんと伸びているが、よくよく見れば彼はずいぶんと背が低い。平たい広場に並んで立てば、その目線は自然に持ち上がる形になる。僕は、自分の上背が同年代の同性たちより高いことについて、生まれてはじめて申し訳ない気分を抱いた。      ――――ああ、そうだ。僕はすっかり自分のことを話すのを忘れていた。  僕の名前は、ルカという。正確には、ルカ・アデル・セン・クレイゼラッド。  すべてが名前で、家名はない。見てくれは男のようであるけれど、|五月の女王《クレイゼラッド》の名が示すとおり、正真正銘女である。  さらに付け足すのなら、抱えた史書の中には王女であるとの記載もあった。僕が読んでいた数頁より少し前、王太子となった王子の同胞《はらから》として生まれた、と記録される病弱な娘。あるいはかつて〈竜〉よりこの国を譲り受け、己の生を対価に捧げたとされる、善き語り部の王の末裔である。そんなふうに綴られていたような気がする。  ――それが、僕。  王宮の離れより出《いず》ることはないと言われた、陽の光を知らない姫殿下。  ちなみにこの国において、獣と魔術師は一切の嘘をつかないと言われているが、僕はヒトなのでごくごく普通に嘘をつく。だからこの街において公然と隠された僕の身分が、よりにもよって王女であることを知る者は三人しかいない。  ひとりは僕自身。  もうひとりは、僕の後見人。  最後のひとりは、神代《かみよ》においてヒトに嘘を認めた、偉大なる最果ての獣――僕らが隣国の神話に則り〈竜〉と呼び表すもの。  それ以外に知る者があるとすれば、僕の生まれ故郷に数人を残すばかり。  東の空に瞬《またた》く一番星より近いはずの故郷は、街の名の由来たる壁と、その向こうに広がる山脈によって僕の視線から遮られている。  しかしながら、それを惜しいと思わない程度には、僕は故郷に愛着を持たない。  なにせ僕にとって、あそこはもう二度と往くことがない場所だ。  だから、僕が帰る先はただひとつ、低い塀に囲われた領主邸跡の一角だけ。  アマリエと手をつなぎ、開け放たれた門を潜って、僕はひそりと言葉を吐き出す。それは誰かの耳に届くよりも前に白く凝《こご》り、端から風に乗って散らされていった。

ブックマーク

この作品の評価

2pt

Loading...